日本人と農業

   

日本は山、川、平地、海と恵まれた自然環境の島国である。このすばらしい日本列島が日本という国の原点であり、条件である。確かに自然災害はあるが、あまりに素晴らしい環境にこの地に住みつき、繁栄した民族なのであろう。この地に安心立命の暮らしを打ち立てようと言うのが日本人である。たぶん2万年前には縄文人としてこの島に暮らし始めた。おおよそ3000年前に稲作をはじめた人々である。この間大陸からの流入も何度もあったのだろうが、日本列島の独特の文化の中に融合しながら、日本人が日本人という一塊として成立した。日本人は稲作を基盤とすることで、循環する暮らしの中に生きてきた。稲作農業をすることで、日本人が生まれてきたとも言える。自分達を取り巻く自然環境を、里としてとらえ、里地、里山、里海として受け入れてきた。自然に織り込れる暮らしをよきものとした。稲作をその暮らしの根底に据えて、ますます日本人の資質が洗練された。

稲作を生産基盤として成立させるためには、共同する暮らしを作り出した地域が優越する。地域を形成することが稲作には合理性がある。部落単位の運命共同体の成立。稲作を暮らしの基本に据えることで、競争や対立ではなく、どう分かち合うかを大切にする日本人の資質の醸成がなされる。用水の確保のための水土技術は、天皇家を中心とした水土を操る技術集団が、日本全体にその技術を普及していったと思われる。それは中国から渡る先進技術であったのだろう。水土技術が国の形成の大きな要素であった。日本各地で、先進稲作技術を受け入れながら、地域を形成したと思われる。荘園制度による、技術の全国への波及。それは対立というより、どのように調和し協調するかを主眼とするものである。共同体の価値観の共有を必要とし、又そこに導かれるものだった。米本位制による経済。そして江戸時代の石高による全国の経済の統一。こうした国家形成は、日本が平和の国として成立した大きな要因である。

江戸時代には遠島、島流しという処罰は追放ではある。追放刑には、江戸に入らなければいいものから、徐々に入ってはならない地域が広がる刑罰になっている。島の暮らしが厳しという事で、島流しが重罪なのではなく、住んでいる所に戻れないという絶望感が存在した。江戸時代の人にとっては生まれ故郷から離されると言う事自体が、重い刑罰であった。地域の中で初めて生きることが可能な生き方。地域を離れると言うことは、生きる価値を失うつらいことであった。ご先祖に見守られながら生きる、安心立命の世界。それは同時に、地域を運営する藩としては、農民が地域から出て行くことは、地域が消滅する経済的な大打撃であった。江戸時代農民は藩にとって貴重な財産であり、蔑まれる身分制度の下のものではなかった。明治の文明開化思想の為に、帝国主義を目指すために、江戸の武士文化が武士道として着目される。むしろ地域に密着した農民の文化こそ、日本人の文化であると見直す必要がある。

島での暮らしは案外に豊かで、島にわざわざ移住する人も多かった。青ヶ島が夢の国と思われていた時代がある。天明の大噴火の際には100名が死亡し、200名が八丈島に避難したと言うから、現在の165人の人口から思うと、かなり多くの人がし間に暮らしていた。明治14年には、最大人口754人が暮らす事が可能だった島。それは山の中での暮らしも同様で、山北でも江戸時代はむしろ山の中に多くの人口が暮らしていた。江戸時代の貧困というのは、明治政府の圧政に対する批判を避けるために、意図して作られた歴史観である。農民の貧困は明治時代の富国強兵で追い込まれた農村の疲弊の方が深刻である。もう一度、日本が再生するためには、地域の復活にカギがある。地域の復活には、地域の暮らしの循環を見落としてはならない。日本人が再生するためには、稲作農業の見直しである。稲作を経済活動の側面からだけ見るのでなく、日本人が大切にすべき文化として位置付けなければならない。地域で取り組む田んぼを作り出す必要がある。やりたいという者であれば、誰もが加われる文化としての田んぼの始めることである。

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