石原慎太郎の決断
石原慎太郎氏の決断を、老害とは言えない。80歳に成っての決断である。これはこれで、素晴らしいものがある。衰えずという所は評価できる。それだけエネルギーがすごいのだろう。まだ子供の頃、石原慎太郎氏が選挙に出る前だと思うおが、演説を聞いたことがある。賀屋興宣氏の応援演説に来た。都知事辞任会見を聞いていて、あの青年石原慎太郎を思い出した。国を具体的に変えたいという意識が高い。これは、石原慎太郎の小説を読んでも、現実の変える意思を感じる。行動したいという高いエネルギーがある。最近の政治家にはこれが無い。唯一あるかに見えていた鳩山さんは、現実感覚に乏しかった。東京都を変えようとした石原氏は、わたしが好まない方向に東京を変えていった。しかし、それまでの東京が無策であったことよりは、ともかく変えようとしたことだけは見える政治だった。一般に政治家が職業のようになり、仕事をしない官僚のような感じだ。
東京都では国に邪魔されて何も出来ない。知事でも市長でも国政に出るときに発言することである。大阪、名古屋、東京、地方からという流れはある。おかしいのは国であり、法律であり、特に官僚である。確かにそう言えないことも無いが、都知事で出来なかったことと同じで、国には国の限界がある。地方から政治を変えると言う事もある。どうせ、政治が出来ることには限界はある。火を付けた尖閣の領土問題も、中国が悪いからと言っていればなないも解決は出来ない。やるべきことをやらないという所に問題がある。もし尖閣を解決したいなら、10年前がタイミングだ。中国政府が日本に助けてもらいたいと、本気で考えていた時だ。もう日本はいらないと考え始めた時に、火をつけるのでは、政治家としての展望で失格である。オリンピックの招致もそうだ。世界の中での日本を考えた時、東京誘致に固執することは、視野が狭い。東京と言う事でいえば、都市機能の分散である。大災害の前に、日本の中枢機能をどう分散して置くかである。それを阻止していたのが、石原都知事である。
具体的な政策や、やっている事を考えれば、腹の立つことばかりである。後継として都知事選に猪瀬副知事が出るかもしれない。しかし、猪瀬氏は都知事に成ってつまらなくなった。それまでの地方改革を主張していた頃は、鋭い発言をしていた。石原氏に飲み込まれた感じがする。石原氏はそういうカリスマ性がある。橋下氏もそれには注意が必要だ。石原氏の国政再出馬に対して、第3極と言われる政党が、政策、政策、と言い淀んでいる。石原氏は、そんなものはどうにでもなるということらしい。どうせ自分のいいなりに成る位に思っている。石原氏に首輪は付けられない。維新党が一番政策が明確である。明確であるが、内容は矛盾だらけであるが、具体的な政策で主張しようとしている。地方と言うものを政治の原点にするべき、と言うことは貫いてもらいたいところだ。国政に出るにしても、地方行政を邪魔しないという事を、是非とも忘れないでもらいたい。
三島由紀夫氏を思い出す。政治的な文学者であった。同じく国粋的な思想家であったが、三島氏は耽美的な資質が自殺に進み、石原氏は政治家を実践した。石原氏が会見で吠えた一つに、「行政の会計法が複式簿記に成っていない。」と言うのがあった。私にも複式簿記の重要性は少し分かる。友人のMさんが、会社の経理をしてきた人で、常日頃複式簿記の独立した哲学を力説している。家計簿的に会計をしていたのでは、問題点が埋もれて見えない。地方自治体のごみ会計がそうだ。生ごみを減らした場合、財政にどのように影響するのかが見えない会計法である。イメージとしては、ごみが減れば経費は減少する。又させなければならない。ところが、これが全く見えないのは、家計と同じレベルが行政の会計である。だから、ドンブリ勘定に成っている。
昨日の自給作業:麦畑の電気柵2時間、お茶の刈り込み準備1時間 累計時間:54時間