頭山(あたまや)
「あたまやま」と言っても、何のことか話が通じなかった。落語の話である。全くアナーキーなシュール的な頭に桜が咲く話である。江戸庶民の感性が枠にはめられていないことが感じられて、とても好きな話だ。最後には、自分の頭の上に出来た池に、飛び込んでしまうというのだから、荒唐無稽の極みである。江戸時代が閉塞的なだけでなく、すごい時代であったことの証明である。こんな話芸が庶民の間に成立していたという事が、多分人類的に見ても、際立っているだろう。それは、文化というものに分け入ってみると、江戸時代の片鱗が見えてくる。同じことになるが、明治政府はこの庶民文化というものを、貴族的文化と比べて一段劣るものという意識を植え付けようとした。浮世絵などは海外での評価が定まるまでは、輸出陶器の詰めものに使われたりしたらしい。私も、この平安期の仏像と比べて、江戸時代の不細工な仏像を見て、そう思い込んでしまった。
これを払しょくするには、鶏を飼い、金魚を飼い、田んぼを始めてみてやっと何か違うらしいという事に気付いた。能と歌舞伎を比べて、どちらが上かといったところで意味がない。江戸時代が閉鎖社会であったから、床の間芸術は奥の奥まで踏み込んだ。粋の世界である。野暮天には、頭山は分からない。確かに野外空間を把握するような、モニュメンタルな大芸術は作れなかった。社会的でなく、個人的なものに興味が制限されている。江戸時代を未来に生かすということは、江戸時代の中になる、循環型の社会の発想を現代社会の中に生かさなければならない。そう考えている。「あたまやま」を自分なりに作ってみたかった。桜が頭の上で咲くというイメージである。桜が咲いた時も良かったのだが、サクランボが付いた。さらに面白いではないか。
これは、カキノさんの奥さんが農の会で指導してくれた、盆栽作品をつくる会で作ったものだ。カキノさんは青森に行ったので、指導してくれた奥さんも一緒に行かれた。カキノさんは益子町の盆栽作家であった。だから器にもいろいろ、工夫があったのだろう。農の会では、兼藤さんが陶芸を指導してくれていたので、器をまず焼いて、その器に盆栽を仕立てようということになった。そこで作ったのが、「あたまやま」である。盆栽も江戸の文化であるし、すぐ頭の上に桜が咲くという事が湧いてきた。シュールなイメージではなく、調和したものとして作りたかった。作って植え込んで、もう2年が経つ。桜は毎年咲く。丈夫なものである。武者仕立てにしようと思っている。頭の上に林があり、風が吹いているイメージである。
生け花の世界というのもある。これもまた江戸文化である。しかし、道が付くようになったとたん厭なものに変わる。お茶を飲むのは良いが、茶道というのは、臭いがする。ちゃんチャラおかしく、権威をぶっ壊すような所が、江戸文化の本流である。「ちりとてちん」は半可通を笑い倒す上方落語である。盆景を水槽に移したようなものが、水景ともいうらしい。アクアリウムとよばれヨーロッパで日本文化として評価が高いらしい。水槽の中で宇宙的世界を表現している。これはまさに、江戸の文化を否定的媒介にして、現代に再生したものだろう。成るほど面白いことは尽きない。水の中で永続的に循環している世界表現する。ハマったら大変なので、見るだけにしておこう。