水彩画の描き方
絵の具の会社のターナーの後援で水彩画の描き方を、一枚の繪の雑誌に載せてもらうことになった。水彩絵の具の提供がある。全部使う訳ではないので、今度、東京都美術館で行う、水彩画の講習会の参加者には、先着順で18名の人に私と同じ絵の具の12色セットをプレゼントする。都美術館の講習会は、9月の29日と30日に予定している。是非とも参加して下さい。「水彩人の水彩画とは何か。」一緒に描きながら、考えたいと思う。水彩画の手法は、一つ方法があるというより、それぞれがそれぞれの方法を開発しているというのが、現状だと思う。油彩画のように歴史的に構築された、基本となる手法があるという訳ではない。小学生でも描いている訳だが、プロでも手法が一定のものがある訳ではない。水彩人においても手法はそれぞれであり、似て非なるものと言える。ここに水彩画は、簡単に取り組める割に、困難な技法とも言われる。水彩を描くもの自体が、その技法を見分けることすら難しいものである。
描いている所の取材は、22日に行う。その時の考えをまとめてみる。描く場所も決めてあるのだが、雨ならばどうするのだろう。
1、何を描くかを明確にする。暮らしの奥にある世界を描いてみたい。
2、描くべきもの以外は描かない。こちらの方が難しい。
3、絵を描くために手順はない。出たとこ勝負という事。
4、絵は出来上がるとは限らない。大抵は挫折して終わる。
良く間違う人がいるので、改めて書いておくが、技法が優れているから絵が描ける訳ではない。芸術は表現者の人間の深さである。技法と内容の両方があって初めて、画面に現われるものであることは、当たり前すぎることだ。つまり、作者の見ていないものを、画面に現すことはできない。丁寧に言えば、「見ている」ということは、その人間が内的に想像できる世界の事だ。マチスの描き方が素晴らしいのではなく、マチスの世界が見る者を圧倒するのである。だから、内容のない、思想とか、哲学のない人間が、いくら絵を描いた所で人が感動することは少ない。技法だけがあって、一見絵として成立したように見えるものは、実は絵でも何でもないものだ。うまそうな、内容のない絵がほとんどと言える。偉そうに書いているように見えるかもしれないが、私が絵を描いているといいたい訳ではない。絵を描くことは、可能なのかどうか。日々研さんしているということである。
この時代の世間の評価というものは、まことにくだらないもので、私は、文化勲章であろうが、芸術院会員であろうが、まず評価できない。歴史に対する、この時代の恥だとまで思っている。まあ、評価されない絵描きというものは、大体そんな風にひねくれてしまうから、私もそう言う所から遠くないのだろうが、芸術を志しているとは思えないものばかりだ。絵画が社会的な力を失ったためなのだろう。社会に影響を与えているような絵画を、あるなら教えてほしいくらいだ。そうした社会的背景の中で、むしろ、私的なものとしての絵画。こういうものが生まれてきていると思う。見ることで感動するというのではなく。描くことで何かに気づくというような絵画である。自分の内的な世界を深めるために、探るために描いているような絵画。そう言うものが成立しているかどうかは、まだ分からないが、今までにない個人的な芸術手法として、成立しているのかもしれないと思っている。言い方を変えれば、修行方法である。
「見ている」この事は実は、奥行きがある。作物を見ていても、深く読みとれる人もいれば、見て居ながら何も見えない人もいる。それは、その人自身の深さが、受け止める力量の大きさだからだ。見ていて見ていない。そう言う事が普通だ。訓練と努力が無ければ、見ることのできない世界がある。見ていない限り、画面に現すことなど、不可能である。しかし、現実には、見ていて描けないことが多いいのだ。そして、見てもいないものをいつの間にか見ている如く描いている。こうやって勘違いして行く。絵らしきものを描いてはいるが、人生を浪費しているだけである。出来ないかもしれないが、本当のことに向かって居たい。私の経験から言えば、座禅のようなものだ。何にもならないからいいのであって、何かの為にやる訳ではない。しかし、やっている内に、新しい世界が開けることもある。