小田原電力

   

昨年12月7日小田原電力の集まりがすでに行われていたらしい。お願いしていた連絡も当然なく、全く気付かなかった。このブログでも何度も書いているように、自給エネルギーにはとても関心があり、それなりに勉強もしてきたつもりであった。市の行う市民が参加できる会議は、何時も出ている。資金的に準備もしている。小田原市に対しても意見書を出し、進展があれば連絡が欲しいとしてきた。にもかかわらず何の連絡もなく、進められている。私があえてこうした姿勢を出しているのは、加藤市長の市民参加が本音かを問うているという意味もある。会議冒頭に市長の挨拶が出ている。「市民を主体にする、エネルギー自治を行うための協議会を立ち上げる。」一体どこを見ているのだろう。この進め方のどこが、市民主体と言うのか。こうした口先だけのきれいごとは、もう聞きあきた。小田原電力には期待していただけに、何とも空しさだけが出て来る。

小田原という怪物の壁は厚い。私も市民のはずである。公募もせず、うちうちで進めているようである。それが小田原的な実践的な事業の枠組みと言う考えらしい。小田原電力は市の事業である。市長のいう、開かれた市政。市民参加の市政はどこに行ったというのだろう。こんな言葉を信じる方が、馬鹿だということなのか。飯田氏と、市長との対談の中でも、市民全体に周知して行く重要さを、二人で述べていたのではなかったのか。全く逆行して、一部のいわゆる小田原経済の関係者によって、公的な事業が取り仕切られている。その方が合理的、実践的ということらしい。市民を烏合の衆と考えていて、まとまるまでは入れない方がいい、というのが本音と思われる。数々の市民参加の仕組みを失敗したと考えている、ということになる。

再生可能エネルギーの問題は、市民意識の改変を根底にすえる必要がある。100年先の小田原の暮らしの事である。どうすれば市民全体の課題に出来るかが、スタートの枠組みでなければならない。こんなことは今さらの事で、全国の事例を見れば当たり前の事だ。小田原の枠組みの意識の古さはつらい。このような前時代的な手法を取るとするなら、まず参加資格として1千万円以上の出資を求めたらどうだろうか。この協議会メンバーにはその覚悟があるということだろうか。今までの成り行きのような人間関係ではなく、お金をきちっと出す人間が集まり、話をした方がさらに実践的と言う頃にならないか。気に入らないがまだ覚悟が分かる。口だけ出し、事業の成立を難しくする人間を排除する。こういう意識と市民参加とどこに接点があるのだろう。いずれ儲かりそうならやるというレベルになりかねない。

身内でやりたいという気持ちが、小田原的と言えばいいのだろうか。メンバーを見ていると、残念ながらこれが、加藤市長の本音に見える。うまく国の事業に出来たのだから、体裁は作れた。と言うことだろう。加藤市長はマニュフェスト自己採点を85点としている。とんでもなく甘い。今の市政を合格点とする自己分析は、いかにも自らには甘い人間という印象である。手をつけたということだけで評価とするらしい。成果を出して初めて評価は出て来る。まして、自己評価などどうでもいい。外部評価もどうでもいい。市民がどう評価をするかだけが重要である。85点など付ける市民は極めて少ないだろう。多くの市民ががっかりしている。それでも、1期目だから、止むえないきもする。他に人材もいないので、もう一期だけは見て見ようではないか。これが私が聞く加藤支持者の声である。85点は甘い。

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