布施業について

   

繰り返し、市民活動はボランティアであってはならない。日本の土壌に合わない観念だと考えてきた。ボランティアのキリスト教を基盤とする思想は、素晴らしいものだと思う。学ばなければならない事だと思う。しかし、今の日本社会の受け入れ方の中には、どうも付け焼刃的違和感がある。その根本となる理念を理解しないで、どちらかと言えば「ほどこしとか、慈善とか、社会貢献とか」いわゆる良い事をしています的な、これ見よがしの鼻につくものを感じてしまうのだ。それは私の料簡が狭いせいなのだが、大体の日本人が料簡が狭いのだから、ボランテイア思想において、キリスト教基盤がない社会で育つということがない、と見ている。では、江戸時代の日本にボランティア的な精神が存在しなかったかといえば、違う形ではあったようだ。もちろん仏教や儒教を背景にしたものだから、大分違うのだが、因果応報的な教えがあり、少し間違うと危ない側面もあったようである。

この事を考える前にすこし。お布施と言うものは、「信徒をだましているのではないか。」と三沢智雄先生にお尋ねしたことがあった。三沢先生は「お布施はもらってあげているんだよ。」こう単純に答えられた。それは高校1年生の時だったが、2年ほどその意味をぐずぐずと考えていた。高校3年生になった頃、「お布施をもらってあげられる人間になる。」ということか。これは大変なことだ、私には到底無理と考えるようになった。それは私がお布施を差し上げることが、すっきりと出来るような人間でないということでもあった。どちらかと言えば功利的に、ギブアンドテイクの方が馴染んでいる。働かざる者食うべからずである。能力主義である。西欧思想の、慈善と能力主義の関係が良く分からない。全く菩薩行をするということは大変なことだ。

話なのだが、雲水修行を続けていたある僧侶が、お布施をもらう布施業と言う事を気に病み始める。行脚を止め、村はずれの道のたもとに小屋掛けをして、そこにいわば路上生活者として住みつく。近所の人は雲水修行のお坊さんが住み始めたと言うので、何かと物を置いて行く。最初はただ、ただ頂くものだけで受動的に暮らしていた。業として、自分からもらい歩かないということである。ところがしばらくすると、黙って僧侶であるということで頂いて居ること自体が、負担になってくる。そこで拾ってきた藁でわらじを作り、自由にお持ちくださいと言う書き札をする。物々交換でお礼をすれば、気が済むのではないかと考えた訳だ。経済の観念が入る。又しばらく時が過ぎた。ある時わらじの入れてあった箱に、馬糞が入れてある。それを見て、覚悟し、それ以降食べずに死んだ。と言う話である。理解は出来なかったが、その頃から、自給自足に生きると言う事を考えるようになった。お布施をもらえるような人間になるまでは仕方がない。

江戸時代の場合、すべての人が生きると言うことに精一杯である。その点武士も百姓もない。明日のわが身である。今でもお遍路さんに「おもてなしをする」という習慣が残っている。あの姿が、実は日本全国にあった。育った場所がお寺と言うこともあって、良くそうした人が来た。何らかの食べ物を差し上げるものだと思っていた。そういう風習のような気がしていた。「呼ばれなすって」「呼ばれやすじゃん」と言う風だった。「今晩呼ばれよし。」呼ばれるとは、食事を頂くという意味。すべての人が食事を頂くと言うことは、自分の力量ではなく、誰かに呼ばれていると言う感覚。江戸時代の場合、村落共同体としての相互扶助という意味合いが強い。部落が支え合う以外生きるすべがなかった。貧困であることを受け入れているから、互いに助け合えた。これは江戸以前の社会でも同様らしい。暮らしの競争のない社会であれば、慈善や福祉の意味は全く異なる。

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