もんじゅの廃炉
今年はもんじゅの廃炉を明確にしなければならない。もんじゅは国が行っている高速増殖炉と言うものである。ストップもんじゅからかいつまんで概要を書き写します。
「もんじゅ」は出力28万kWの高速増殖炉の原型炉です。約6000億円の巨費を投じて福井県敦賀市白木に建設されました。これまで「もんじゅ」につぎ込まれた資金は約9000億円にも達します。高速増殖炉開発につぎ込まれた総費用は約2兆円と言われています。
95年12月8日、試験運転中にナトリウム漏れ火災事故が発生し、現在まで停止しています。改造工事が施され、2010年4月に運転再開予定です。(予定は部品落下事故とその回収で延期され、現在も停止の状態である。)(回収は完了)「もんじゅ」と核燃料サイクル
核燃料サイクル政策とは、原発の使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、これを燃料に加工して高速増殖炉で使い、その高速増殖炉からプルトニウムを取り出して、また高速増殖炉で使う、というサイクルです。高速増殖炉サイクルが本命で、軽水炉サイクルはその立ち上げのための手段です。ゆくゆくは高速増殖炉サイクルだけで回ることを想定しています。
高速増殖炉開発が核燃料サイクルの要です。そのために「もんじゅ」があり、また、六カ所の再処理工場が造られました。高速増殖炉開発を止めないことには再処理工場も政策的になくならない、という関係にあります。
もんじゅと言えば文殊菩薩の事である。福井県にある曹洞宗の本山永平寺の管長がこの名前に『良い名前をつけましたね。』とお墨付きを与えたと言われる。そのこともあって、永平寺が異例のシンポジュームを開催したのだろう。西田正法事務局長は「文殊菩薩の智慧(ちえ)は仏教の智慧であり、科学知識とは違う。許される名前ではなかった」「仏教者として菩薩と世間におわびしたい思いから、シンポジウムを企画した。」 永平寺が当時利用された可能性はある。曹洞宗寺院は、毎朝毎晩、天皇の菩提を弔う存在である。権力に対して、すり寄る体質を持っている。その永平寺がこういう行動を起こすということは、内部反発も大きなものがあるだろうし、外部からの強い圧力もあったことだろう。「宗教者が現実政治にかかわってはならない。」こう責められたことだろう。それでも開催したということは、西田氏の決意だろう。
もんじゅの廃炉がなぜ出来ないのか。日本人の決断力の欠如が一番である。要するにぐずぐずしていて長いものに巻かれていたいのだ。責任を取らない。判断をしない。時間稼ぎをする。矢面に立ちたくない。こうした弱さで、夢を捨てられずに来てしまっただけだ。法務大臣が、死刑の執行を命令しない。こういう手法である。2番目には、いつでも核武装できる体制を整えたい。しかし、それなら、日本海側に作るのはどうか。一番狙いやすいあたりに作る政治判断の愚かさ。もし、攻撃され爆発すれば、福島の事故の比ではない。関西一円人が住めなくなるのははっきりとしている。軍備として考えて、リスクを高めている愚かさ。3番目には利権集団の存在。50年にわたって、出来ないものを出来ると言い続けて、生涯を過ごした人たちがごまんといるのだ。計画通り行かない責任を取るどころか、安定した高級を取りぬくぬくと過ごしたのだ。この暖かい布団を出れれない原子力村の住人の気持ち。4番目には原発廃棄物の行き場としての、理論上の完結。今行われている原子力発電は、前段階の一時しのぎの方法なのだ。50年前の当初の夢のエネルギーは発電すれば新たな燃料の生産も出来ると言うことだった。原発と言う技術全体計画に置いて、高速増殖炉が出来なければ、一貫したものにならないという科学論理構成の原発。
世界の高速増殖炉計画は次々に撤退である。(小出裕章さん5月23日の参議院行政監視委員会の証言より)
最初は1968年の計画で高速増殖炉は1980年代前半に実用化としていた。
実用化時期は、どんどん延期され、次の計画では1990年前後、その5年後の計画では2000年前後、その次は2010年になった。
その後は、実用化ではなく2020年代に技術体系を確立したいとした。次は2030年に確立とした。
その次の2000年の改訂では年度を示すことができなかった。次の2005年の改訂(原子力政策大綱)では、2050年に一基目の高速増殖炉を作るという計画になった。
どんどん目標が逃げているのは明らかである。10年経つと目標は20年先に逃げている。永遠に辿りつけない。ところがこれを作った原子力委員会やそれを支える行政は一切責任をとっていない。