飯田哲也氏の話
小田原の駅ビルで飯田哲也氏の講演を聞いた。実はこの方はマスコミ、テレビでも良く取り上げられる人らしい。小田原市で市長が意見を伺う、アドバイザリースタッフのようなものに、飯田氏をお願いしたという話だ。「小田原電力」をやったらどうかと言われた。構想は面白い。しかも、そこに向かう市民と行政で作り出す仕組みが重要とのこと。まことにもっともな考えである。市長の日記でもそのあたりのことに触れている。自然エネルギーの地域自給構想を進めて行かなくてはならない。現代農業の7月号「水&エネルギー自給」に飯田氏が書かれている文章がある。ごく当たり前に読んだ。世界を広く見渡し、知識が豊富な、未来を大きく見ている人が、普通に自然エネルギーの時代を書いている。そこへの道筋が重要と繰り返し言われていた。
市民の役割は何度も言われてきたことではあるが、現実には進まない。問題は市民側にあるのではなく、その仕組みを提案する行政が、この問題を見えていないと思う。市民協働と言った場合の行政の役割の重要性に気が付いていない点が大きい。市民が市行政や自治会と言うものから距離を置いている現状をとらえきれていない。ここに踏み込むにはきれい事では済まない。小田原市民は盛んに鼓舞され、大いに市民協働をしている。しかし、協働であるはずの行政職員はどう位置付けられているのかが示されたことがない。行政は今までのままでは駄目だという認識がない。生ごみでいえば、がんばる市民が段ボールコンポストで節電である。一方行政は、電動生ごみ処理機の補助である。恥ずかしい姿だと思わないのだろうか。市庁舎内の自動販売機は、動いている。電動生ごみ処理機に補助金を出す行政に対して、飯田氏はどんなアドバイスをするのだろう。生ごみ堆肥化検討員の報告書でもこうしたことは何度も伝えてきたが、行政は動かず。市民の意識に比べ行政の未成熟が、小田原の現状である。生ごみ堆肥化への道筋を行政は宣言すらしていない。
まず、行政がきちっと政策を立てられるのか。生ごみの堆肥化ではも市民の努力だけは強調されるが、行政の行うべき役割がさらに重要なのだ。例えば剪定枝を燃やさずチップ化して、市民に配布する位すべきだ。役割はいくらでもあるが、今のところ行政は一部動き出した位か。自然エネルギーを小田原電力と言う形で行うなら、言いたいことは、考え方は山ほどある。しかし、その前に行政の役割の自覚をしてほしい。「行政はこういうことを引き受けるから、市民にはこういうことをしてほしい。」明確に行政として役割分担を主張して欲しい。行政職員の経費の削減のために、市民を活用しようでは話にならない。具体策である。希望する自治会の公民館の屋根に太陽光パネルを付ける。その発電量と経済性を自治会で共有し、太陽光パネルの普及のきっかけにする。もちろん行政も補助を出す。舟原で付けるなら、一定費用を寄付しても良い。希望者の10年間自治会費の先払いなどどうだろう。
小田原電力は良いアイデアである。理想論としてでなく、これを現実化すること。具体的に展開をする手順を示すこと。その為にまた検討委員会を作るとか、市民参加とかいうもっともらしい形式論が出て来る。行政自体の方角として、具体的な手順を示さなければならない。生ごみ堆肥化検討委員会では具体策を示した。小田原市行政はその検討結果を生かそうとしていない。形式論だけのきれいごとでは、何も進まない。命を守る小田原市とか、盛んにきれいごとは言うが、率先して放射能の測定をしようとはしない。角の立つことは出来る限り避けようという、曖昧さが目立つ。小田原電力は国との戦いである。このままでは、きれいごと部分だけをパフォーマンスされ、それでだけで終わりが予想される。そうはさせる訳に行かない、重要課題である。このことは、地域から自給エネルギーを立ち上げ、国を変えてゆく気概で取り組まなければならない。
昨日の自給作業:大豆の植え付け2時間 累計時間:37時間