スーパー堤防の廃止
事業仕分けで利根川のスーパー堤防の廃止が決まった。土建業が猛威をふるった日本列島改造の時代、利根川というような、大河をコンクリート土手で固めてしまおうという、信じがたい発想が生まれた。その主たる要因は土建業のために、公共事業を作り出すことにあった。日本中をコンクリートで固めてしまうような、国土破壊が至る所で邁進された。上流には巨大ダム。いたるところに堰堤、コンクリートの土手で固め、最後には河口関である。もう河川という大自然物が、工場の排水溝のような扱いである。人間の管理の限界をはるかに超えた発想である。その為実際の費用対効果は極めて少ない。理屈の付く公共事業を作り出すことの方が目的だから、結果などどうでも良かったとしか思えない。仕分けでの廃止判断は当然であるが、心配になるのは治水である。仕分けのパフォーマンスは結構だが、治水を抜きにスーパー堤防だけ論議するのでは、怖ろしい災害が起こるだろう。
治水事業は山づくりからである。豊かな山を時間をかけて作り出す。今一番失われている、時間をかけて育てる部分である。次に田んぼである。本来河川の氾濫原であったところを、水土の技術で耕作地にしたのが田んぼである。遊水地を含めて、200年に一度は洪水を受け入れる場所を作る。田んぼは一度は崩壊するだろうが、人的被害は最小限に食い止められる。そして、海に至るまでの河川の流れの確保である。人為的なダムや堰や堰堤によって川を寸断することなく、海に豊かな資源を注ぎ込み、砂浜を形成してい行く。林業、農業、漁業という一次産業を川によって繋いでゆく。一次産業との融合を治水の基本に置く。豊かな山を作り出すことから、もう一度始める必要がある。日本の山林を建設用材の生産地域、自然林の保護区、観光地域。自由居地区、きちっとした計画を立てることだ。
神奈川県でいえば丹沢山塊が、県民の水がめになっている。人工的なダム以上に、可能性のある広大な山々がある。この山が疲弊してきている。杉檜の植林を即悪とは思わないが、建設用材としての循環が完全に滞りが生じている。しっかりした計画のもとに、植林し、建設用材として生産性が上がる森を作る。それの出来ない地域は無理な植林は辞める。遊水地としての田んぼと人家の関係である。この点でも。無計画と言いたい実態がある。本来遊水地としての田んぼを保全すべきところに、人家が進出している。その家を守るために水路がコンクリートで固められる。私有財産という限界はあるが、小田原市の総合計画というものが、単なる建前の形式的な飾りになっているからだ。具体化する精神がまるでない総合計画が今も検討され、審議されている。たとえば酒匂川の治水と、周辺の農業地帯の関係ぐらい、図面の上で明確に計画するべきだ。近くでいえば、久野川の周辺でも同じことである。河川を巨大な直線のU字抗にしてしまい。田んぼ埋め立て住宅を作り、川が氾濫するからと言って対策に河川工事である。大きな計画があれば、こうした混乱は起きない。
100年先を見通した、大きな水土計画を立てることが第一である。今までの計画は、公共事業の為の、証拠作りのような計画ばかりである。そして計画は一度たてられてしまうと、検証されることがない。やってしまった間違った公共事業を、検証しその責任を明確にして行かなければならない。無謀な計画を立てた審議会の委員の名前を公表する。時代に対する先見性のない人間が誰だったのかは明確にしなければならない。たとえば、日本の山を杉檜ばかりにした人間の名前を公表してほしい。緑の羽根を日本の山の為だと思って、まじめに買った小学生の憤りだ。スーパー堤防の廃止は結構。これを作る必要があると主張した人間は誰なのか、何千億円の税金を無駄にした責任者の名前を公表すべきだ。反文化勲章を授与する。
昨日の自給作業:草刈り1時間 累計時間40時間