水彩人北海道展の出品作
昨年の暮れから描き続けていた中から、2点出すつもりである。月末に絵を取りに来てくれると言う事だ。珍しく長く描き続けていた。大きな100号のものも描き始めたが、これは出さない事にした。何故か、中版全紙で描いているものの方がいい。この「いい」と言う事を実はずーと考えていた。描いたものに良いというのと、悪いというのがあるのかがわからない。変な話を考えている。段々絵が出来てくると言うのも不思議な事で、出来たものがあって、それを表わしているだけと言うことの方が近い。出来た絵があってというのは、頭の中にと言う事だが。その頭の中の絵を、再現しようとしているが、それが出来ないのか。頭の中の絵が不明確と言う単純な事なのか。あるいは頭の中の絵が、実は糸口に過ぎないのか。描き続けていると言っても、こう言う事を巡ってボーとしていると言うのが現状である。
絵が実際の画面に姿を現すのは、一瞬である。1時間30分ほどか。それはほとんど作業である。絵を描いているとは思っていない。もちろん面白い作業であるが、絵を描くと言うのは、その前に頭の中に描く絵の事である。頭の中に思い浮かぶものである。だから、絵は農作業の時とか、散歩の時とか、そういうときに突っ込んで描いていることが多い。それは全画面ではなく、細部的なことが多い。この色はこういう感じでできる。この調子はこのタッチでとか。大体意味もよく分からない細部的なことが、ぐるぐるしている。それらが、ある時総合的なって来る。そうだったか、こういう絵か。描き止めようと言う事になる。それは具体的な風景である。具体的といえども、眼前の風景とは相当に違う事になる。確かに違うようでもあるが、眼前の風景の絵になったときの姿ともいえる。
そう、絵というように名付けているが、こういう物を絵画と言うのかどうかは、また別物である。平らなものに描いたものすべてが絵という訳でもない。地図であったり、説明図であったり、壁紙であったりする。絵という物を厳密な範囲でとらえれば、私がやってみようとしているのは、きわめて個人的なことで、絵であろうとしている訳でもない。自分が気になってしょうがないので、この絵らしきものを描き留めたい、という欲望であろう。眼が見て、美しいと思ってしまうと言う事が、そもそもの始まりである。何故、美しいと思ってしまうのだろう。美術とはいいながらも、絵は「美」と言うようなものと関係があるのか無いのか。これもなかなか解きほぐせないところだ。マチス以降と言うか、絵画が終わってからと言ったらいいのか。美と無縁の所が絵にはある。私が気になるのは、自分が引きつけられる美と言っていいものである。
こういう感動とか、ああ美だ。こう感じる事は、人間には普通あるだろう。単純にこの意味をもっと深く味わいたいと言うような事だ。眼福、眼福。ちょっとした草むらに、巻き込まれてしまう感覚がある。草を刈っていて、あまりの素晴しい状況に刈る訳に行かなくなる。ああこれは絵だと。否、絵を越えていると思う。これがもし、画面というものに表わす事が出来ればと思う。見えているのだから、出来ないはずも無いことなのに、出来たためしがない。所が、モネの絵を見ていると実は出来ている。マチスも、ボナールも、と思う。しかし、中川や梅原はまた違う。もうちょっと違う。ここはややこしい。違っているがさらに眼に近い。このちょっと違う先の方が結局気になる。たしかに草むらに見ているものに近い。何だろうこれは。ここを解きほぐしたい。私という個別の眼が見ているものは、学んだものである。感じる事を重ねて、養成されたものなのだろう。