竜馬ブーム

   

またまた、竜馬ブームが起きているようだ。土佐出身の私の育った家はいつも竜馬ブームであった。横浜のおじいさんは竜馬に抱いてもらった。という伝説さえ伝わっていた。しかし、柳田國男氏の弟子を自認していた父は、明治維新を評価していた訳ではない。だから、竜馬の話に成ると、生きていてくれれば明治政府もああはならなかったと、考えを譲らなかった。薩長土肥と言う事をよく言っていた。そして、薩摩長州の土佐藩排除の藩閥政治と富国強兵を国是とした、明治政府の問題点へと話が進んだ。「歴史のもしも」には、竜馬が生きていればという残念がある。竜馬は下士出身で、上士という土佐藩の武士ではなかった。差別されて育った人間である。封建制の強い土佐の風土の中で、封建制打破の思想をはぐくんだのは、出自が影響している。脱藩とか、自由な精神は庶民であったがゆえに生れた。

竜馬は欧米の帝国主義に対抗する、明治期における象徴である。ある意味ゲバラのような存在かもしれない。ゲバラより、カストロの方が大変なのは当然の事である。アメリカとソビエトの冷戦の狭間。そして、自主路線。キューバの幸福社会。国民の幸せ度と言う事が言われるが、こう言う事は比較と言う事がある。昔との比較。未来との比較。先進国との比較。幸せ度でいえば、ニューギニア高地人であると、本田勝一氏は書いている。社会が問題とするのは、客観的幸せの方になる。本人さえいいならという幸せを、周囲は認めない。また、社会福祉は認めない。そう言う事を、小学校で習ったのだが、その時も分からなかったし、今ももって理解できないことだ。医療の充実度と、生命という物の自然を受け入れていることとは違う。どんなに長生きしても、ボケない限り死は厭うべき物である。明治期と江戸時代とどちらが庶民は幸せであったか。

竜馬が33歳で死んでしまい不幸せである、とは誰にも言えない。充分に生きたといえる。素晴しく生きたといえる。殺されるというような、不幸な死に方も覚悟の上であっただろう。竜馬の特徴は感性である。船中八策など読んでも大した思想家には見えない。人間を動かすひらめきがあったのだろう。亀山社中というカンパニーの設立。この辺の発想が面白い。本当は次の時代など誰にもわからない。未知に立ち向かう意欲。こういうものが今一番求められるから、竜馬ブームなのだ。理屈では乗り越えられない、資本主義の行き詰まり。欧米の競争社会の原理の危険。進歩主義の限界。中国、インド、アフリカ。新しい競争者の出現。このままでは世界は危険が高まるに違いない。この予感が誰にも芽生えていて、たぶん日本人はこの点に早く気付いたのだと思う。

竜馬の評価は現実のあまりに不甲斐ない政治への反動もある。そして、英雄は期待しないほうがいいという事である。日本が植民地化されなかったのは、日本にあった国力である。きわめて厚く深かった、庶民の力量である。江戸時代を通して蓄積された日本人の力量である。明治政府の軍国主義は戦争への道をひた走る。鎖国の中で育てた、学問・思想・文化。そして類希な循環社会形成の技術力。食糧の自給100%を主張した小沢氏はどこに行ったのだろう。今の戸別補償1兆円はただの補助金ばら撒きである。確かにばら撒き先はコンクリートから人へ直接である。高校無償化も子供手当ても、同じである。こんな工夫の無い政策では、お金のない時代、課題の解決は遠のくばかりである。今のやり方では経済破綻はそう遠くない。竜馬の持つ、未来を展望する感性。ここに着目したい。

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