水彩人展始まる
4日から水彩人展が始まる。上野の東京都美術館。地下3階の展示室である。先ず、7,8日は会場に行く予定。4日午前中が作品の展示。12時までに展示が終わった。どうせ自画自賛と言う事になってしまうが。他にはない、いわゆる公募展ではなかった。ともかく作品の陳列になっている。水彩画の一つのよさは、透明色の紙が透けて見える独特の発色がある。油彩画でも透明な彩色という物はあるのだが、顔料の大きさが、ずっと大きいためもあり、又オイルの艶や粘着性もあって、滲んで染みてゆくような、発色は水彩材料には及ばない。この微妙な水彩表現が充分に発揮されるには、大作よりも小品が向いている。しかし、近年の大作主義が公募展の世界から、小品を締め出してきた。水彩連盟展でも、日本水彩画会でも、最低のサイズを20号と決めてある。水彩画の探求を表明しながら、おかしなことだと考えている。
実は、この大作主義の蔓延は日本の高度成長期の残存だと思う。大きい事はいいことだ。大げさなもの、大仰なもの、えらそうなもの、びっくりさせるようなもの、人に出来ないようなもの、このような競争を勝ち抜くような価値観に、絵画の世界も汚染されたのだ。100号を今度は描くといいですね。などと本気で批評している大先生が今でも居る。100号と0号と較べて大きい方が難しいから偉い。こう言う価値観で公募展という物は出来上がってきた。並べた時有利である。芸術とは関係のない馬鹿げた話だ。会場芸術とか言って、そんなジャンルを勝手に作っている。会場効果で、でかい方が効果がある。何の効果だというのだろう。社会性を失った会場で、絵画の持つそんな力はとうの昔に失われている。
水彩人では、0号の作品のその良さを充分に発揮できる展示を目指そうとした。正直東京都美術館という、困難な条件の中どこまで可能か、不安な挑戦であった。今までの公募展では、版画部屋と言うのがそんな部屋になっていて、確かに見栄えがしないものである。趣味のお楽しみの展示会のようになってしまわないか。こう言う危惧は当然あった。まあ、従来の会場は大きい絵と言う事で、一見ごまかせると言う事に過ぎないのではあるが。ともかく小品の素晴しい作品を集められるか。ここにかかっている。一つは、素晴しい小品は画廊では展示されている。G.ゴトウから伊藤彰規氏。G.クラマーから田鎖幹夫氏K`s画廊から、三輪暁氏の推薦を戴いた。また、同人の推薦という形で、青木美和氏、池田ナオ子氏、太田良一氏、佐藤すみ枝氏、滝田一雄氏、平井勝正氏。水彩作家として、注目され活躍している人達である。そして、水彩人の研究会から育ってきた、しるべ会の人達。その上に今回、広く公募すると言う新しい形も試みた。
会場を見たところ、試みは成功した。もし、水彩画を試みている人なら、見て置かなければならない展覧会になっている。こうした展覧会は二度と開けないのではなかろうか。今まで、色々の事に関わってきたが、サー、これからスタートだと言う時が、一番面白かったと言う事はよくある。しかも、今回のような状況が成立したのは、10回の水彩人の歴史をぶっ潰す覚悟のお願いの上だったと思う。どうせ10回でやめるなら、そんなスタートの時の約束だった。どうせなら、やれることを全部やってみた上で結論を出そう。そんな気持ちの11回の再スタートだった。
自分の絵の事を付け足しで考えると、とても内向きな感じで、自分の目だけで描いていると思っていた。絵を描くと言うのだろうかと言う疑問すらあった。並べて見ると、そんなことは別の事で、やはり、ごく常識的な絵画であり。絵画とは一体なんであるか。これだけは、もう一息つき詰めたくなっている。