連帯を求めて孤立を恐れず
今日も中国にいるはずです。日本には居りませんのでお間違えなく。
「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力尽くさずして挫けることを拒否する」
この言葉をみたのは、1970年の金沢大学の美術部の部室である。薄汚れた、元軍隊の厩であったとか言う、汚い壁一面にかきなぐられていた。あの場面を思い出すだけで、暗い情熱というか、自分の底に沈んでいる、生きものとしての「もがきのようなもの」が蘇る。当時、大学は一群の学生に占拠され、閉鎖されていた。金沢には知り合いが居る訳でもなく、居る場所も無いまま、訪ねたのが美術部であった。中学、高校と美術部にいたし、美術学校に行こうとしたときもあったので、当然のように足が向いた。その後、金沢での4年間は絵を描く毎日となった。大学の授業もよく出たほうだったと思うが、いつも絵と繋がっていた。絵を描くといっても、自分というものが何であるかを、絵を描く事で探ろうとしていた。気取ってそう思ったのでなく、そうするほかなかった。「何でお前は絵を描いているのか。」常に問われているような、環境だった。ゲバ棒、ヘルメット、汚いタオルの覆面。そんなひきつった男が突然どやどや駆け込んできて、絵を描いている私に、そういう言葉を突きつける。
落書きの意味と本来どこに書かれていたものかなど、元木薫さんから聞いたと思う。私は2年遅れて大学に入ったので、年齢は同じだったが、2年先輩であった。元木さんは後に毎日新聞に努める事になるが、その頃は、哲学科の3年生で小説を書いていた。父親がやはり、小説家志望でありながら、若く死んだ。そして自分もそうなると言っていたが、本当に29で死んでしまった。桁外れの論理性を持っていて、議論で負けると言う事がない人だった。大学の中は内ゲバが続いて、殺人が起こるような殺伐とした空気が充満している。そうした空気は、同時代の学生でも、能天気な人は知らないままに、楽しいキャンパスライフを送っていた。何故お前はそこでそうしているのか。このことがいつも、私には突きつけられていた。結局、回想的にでなく、今もまるで同じ心境で暮している。お前こそ、今、どこで、どうしているのだ。と問い返したいぐらいだ。
絵を描くと言う事は、「お前は何をしているのだ。」こう問われることになる。養鶏をやることも、畑をやることも、「何をしている。」と聞かれる事になる。「連帯を求めて孤立を恐れず」こんな言葉を思い出すのは、不幸な事である。孤立している。孤立してはいるが、連帯する事に開いている。養鶏場をやっていても、田んぼや畑も、最小限の家もそうなのだが、常に見学、研修を受け入れる姿勢はとってきた。来る人が居るかどうかではなく、姿勢だけはそうしてきた。来るものは拒まず、去るものは追わず。禅門の姿勢である。常に自分の問題としてとらえる。傲慢といえば傲慢。孤立には強いつもりだが、連帯を求めてきたのかは、心もとない。自分は動かない。安心立命ではあるが、運動論としては、だめだろう。道元と栄西の違い。
力を尽くす。これもまた難しい事だ。どこまでの壁がない。田んぼに草が生えても良いという人が居る。本当に力を尽くしていてそうなのか。「力を尽くさなければ面白くないだろう。」こう言っていた人が居た。やれるだけの事をしなくては面白くもない。収穫を問う必要がある。大豆の会において、大豆畑に来て、遊んでいる人が居る。そのことをどう考えればいいだろう。中原さんがそう言う事を問いかけていた。興味深い事である。私は、全く遊んでいたい人は遊んでいれば良いと思ってしまう。どうも一生懸命働いていると思っている人から、文句があるらしい。これは世間の労働の範囲だと思う。世間の労働が好きな人は、農業法人にでも勤務すればよい。農の会で働くと言う事は、少し違う。「力を尽くす。」と言う自分の事ではないか。人の行動から、自分をはかっても、何も生れない気がする。伝わる事は必ず伝わるようだ。そうやって何度も崩されながらも農の会は生きている。