日々の充実
今日は中国での最終日です。夜中に成田に戻る予定です。ブログの掲載はお願いしたものです。
いよいよ60歳定年を迎えた。ここへ来て、最も充実した日々を過ごせることにふかい感謝だけである。日々の暮らしにおいて、何の不満もない。あとは、この繰り返しの日々を出来る限り、続けて行きたい。ここへ来て、少しづつ、やりたい方向が具体化してきた。それは美しい自給生活である。自給自足の最小限の暮らし。これを総合して行きたい。その実際が少しづつ見えてきた。やはり何事もやってみない限りわからないものである。美しいなどという曖昧な表現は誤解の元である。しかし、美しい畑を作りたくなった。足利善政が文化に逃げ込んだ事と、真逆に攻撃的文化として、美という説得力を畑に持たせたくなった。農家が作る畑は整っている。絵画で言えば、悪い言葉であるが、売り絵的である。当然の事で、売り絵を描く絵描きに対しても、農産物を販売する農家に対しても、大いに評価をしての事だ。川口由一氏は「妙なる畑」と自らいわれている。福岡正信氏の自然農法は疑問視される事が多いいが、多分一番美しい畑であったことは、信じられる。畑を見れば、そういうことはわかる。
私は今は絵を売らない素人絵描きである。私は養鶏を定年した素人農家である。しかし、60歳から生きると言う事には、素人も専門家もない。その生きると言う事が、そのまま畑に出てくるような畑を作っていたい。このことがはっきりと方向付けられてきた。二つの事からそう思うようになった。市民農園が美しくないという事。きわめて不調和な空間である。あれでは畑仕事の楽しみが半減するだろう。後ろが崖なら、崖に応じている畑。前が川なら、川に応じる畑。そうしたあらゆる理屈が、自然の中で、調和した姿の畑は市民農園では無理である。もう一つは、ガーデニング。日本人の美の心を失った姿が、ここによく表れている。形骸化してしまった日本庭園がうんざりなのはわかる。障子、畳の家より、フローリング、西洋アンテック。山本麗子氏の「スイートハート」が、反目標。悪いからという訳でなく。良いだけにアンティテーゼを示さなければ、危険。
暮らしの自給自足の形が見えること。いつの季節も自給自足の形が、表れている事。手間はかけるが、合理的であること。「機械力を使わず、持ち込みを行わず、四季の流れに応じる。」地場・旬・自給そのままにくらす姿が、表現される。そんな田んぼ、畑を作り出してみたい。最も合理的な田んぼは美しい。田んぼは稲が十二分に育つ姿が、美しい。稲が充分に育つための様々な行いがある。稲が良く育つには、良い水が必要である。良い水が田んぼを潤すための様々な仕組みがある。例え生活排水が混入してくる水であっても、それを浄化しながら、耕作する事を目指す。生活排水が混入しない努力もあるが、受け入れて、最善を尽くすと言う事も、美しいものになるはずだ。理想を求めて、現実を見失ってはならない。田んぼにしろ、畑にしろ、諦めることなく、より良い姿を求めて進んでいる事が、大切なのではないだろうか。その意味で、ビニール即美しくないとは思わない。
たまねぎを作るのに、この冬は黒マルチを使おうかと思っている。今までこうした資材を否定してきて、使った事がない。しかし、それもまた心の狭さではないかと思う。自然素材であれば、美しいというのも、狭い心であるのかもしれない。ともかくやって見ないことにはわからない。ビニール資材を毎年廃棄するようなことは、良くない。大切に生かして使うのであれば、稲藁を使うのと違わない、美しさがあるのかも知れない。自然というと、近代科学の恩恵を否定するものと、決め付けるのも狭い心かもしれない。化学肥料を使わないのも、化学農薬を使わないのも、必要がないからである。遺伝子組み換えも同じに必要がない。不用な物を持ち込まず、どうしても必要なものなら、ビニールであっても受け入れる。これを見極める事も生きると言う事ではないだろうか。美しい畑を目指して、先入観を捨て、全てから種々選択する。