尾崎好美選手
尾崎選手が、世界選手権女子マラソンで2位になった。尾崎選手に気付いたのは駅伝の日本代表として、走った時山北の出身の選手がいると、ビックリした。山北で暮していたとき、すぐ下に見えていた、河村小学校、山北中学出身の選手だ。山北中学には陸上部があるわけではなく。尾崎選手が陸上に本格的に取り組む事になるのは、小田原の城山にある、相洋高校に入ってからのようだ。しかし、相洋高校時代の最高成績は3年時の県総体で800メートル8位という選手。当然、高校総体にも出られない選手である。高校時代の私より少しはいいが、とても陸上を続ける気持ちに成るとは想像できない成績。その後、地元の企業である、第一生命に入社。正社員であり、陸上で引っ張られての入社という訳でもないのだろう。ここに、山下佐知子監督が第一生命の監督として、移籍してくる。山下監督は世界陸上東京大会で2位になった、元ランナーの女性監督である。この人の人間性が素晴しい。マラソンでは監督の力がとても大きい。練習方法が選手に適合するかが、育つかかどうかを握っている。
山下監督の発言では「入社当時は体が弱くて練習ができなかった。貧血になるし、風邪をひく。とてもマラソンをできるとは思わなかった」。性格もおとなしく、存在感が薄い。成績は伸びなかった。尾崎選手の転機は約3年前。自分の意思で正社員から契約社員になったとき。契約社員にも色々ある。「正社員では午前に仕事し、午後から陸上の練習。甘えを捨ててもっと陸上に集中したかった」。山下監督も力が宿ってきたのを感じたという。25歳になって、本気になった陸上選手。ついに、山下監督にして、尾崎選手を育てる道が分かったのだと思う。
初マラソンに出場したのも入社9年目の2008年名古屋国際で27歳。この時は一般参加ながら2位。これで一気に注目選手となる。北京オリンピックには惜しい所で出れなかった。しかし、エリートコースを歩んだ選手でないから、そのくらいの事でくじけないのは、当然の事かも知れない。そして2度目のマラソンが昨年の東京国際女子マラソン。逆転で初優勝。世界陸上ベルリンの女子マラソン代表内定第一号となった。これが幸いした。他の選手より代表が決定が早かった。マラソンはそう何回も走れるものではない。半年以上の準備期間が必要である。箱根駅伝でも予選会に回ることが、本レースで不利になるとは、よく言われることである。今回の尾崎選手の2位を教訓に、早く出場決定を行うように改善する必要がある。オリンピックでも日本マラソン陣が良い成績が残せなかった原因の一つはここにあると思う。尾崎選手は春先に腰を痛め、一時は歩行も困難な状況だった。多くの選手が一度はこういう状況に陥る。但し、決定が早かった、尾崎選手はもう一度立て直すことが出来た。アメリカの高地で最終調整をしていた。その状態ををテレビで見せていた。まだ、速度は不足していた。が、とても身体が絞れていい練習をしてきていることが伺えた。
マラソン選手に良くあるのが、不安から来る練習のし過ぎ。マラソンは精神的負荷が大きな種目なのだ。一人で座禅をしてはならないと、師から言われていた。おかしな所に行くものだと。マラソンを走っている精神は、きわめて座禅の状態と似ている。山下監督との良い人間関係が、一度起こしてしまった肉体のトラブルを、その後良い方向に転換できたのだと思う。瀬古選手の場合は最高の条件だった、モスクワオリンピックが政治的欠場。その後のロサンジェルスオリンピックでの14位と実力を発揮できなかった。早稲田時代からの中村監督が、一緒にヱスビー食品に入社。発言の強い中村監督の指導法が注目されすぎてた。負けたら死んで責任を取るなどと発言したことが、とてもプレッシャーに成っただろう。練習をし過ぎてしまって、体調の調整が出来なかったのではないか。指導スタッフを変えて、なかなか力を出せなかったのは、高橋尚子選手も同じではないだろうか。最高のスタッフを自ら作り上げての、挑戦であったが、オリンピック優勝以降もう一つ結果を残せなかった。
尾崎選手が素晴しいのは、陸上を目指すと決めたのは、強かったからではない点。陸上が好きだったのだろう。そして、なかなか芽が出なくて、25歳になって背水の陣をひく。山下監督という、類希な監督と出会い、いい練習をつめたこと。こんな素晴しい人間が、山北の尾崎さんなのかと思うと、本当に嬉しい。