「夜水」和田傳
和田傳の短編に「夜水」昭和27年の作品がある。もう消えて行った、水争いの感覚がここにある。私にとっては田んぼの浅水のことだ。ドンブラコと水を入れることは、罪悪感が伴う。ヒエが生えないように、8センチ以上の水張りを目指す。これが何となく申し訳ないことなのだ。あるいは、代掻きには水がいる。上の田んぼから順番に水を入れるとすれば、下の方のものは、田植え時期を待たなければならない。待っている間に何があるかも知れない。最悪、下まで水は来ないかもしれない。水が足りないと言う事は今はない。水がないのに田んぼをやる。どんな世界になるか子供の頃、夜水廻りについていったことがある。子供が居ればそうひどいことも起こるまい。そんなことではなかったか。和田傳の作品はいつも、部落のひんやりとする関係を、ことさら暴くようなことをしている。
浅水の普及の背景には、工業用水の需要の増大があったと思う。水を減らす農法の開発と普及は、農業技術の見えにくい方向性となった。これと、夜水の問題と相まっている。夜他所へ行く水を止めてしまうのだ。水路をいじって我田引水のこと。これは深刻なことだった。ここに、様々な力関係が働く。上の田の者は、永久に上の田。動くことが出来ない、閉鎖社会。ここで出来上がって行くエモイワレヌ関係が、今も変わりなく続いている。もちろん続いているのは、気分の上であって、水が余っていても、水をドンブラコと使う罪悪感だけはある。ここに今度は、管理の問題が重なる。水を管理する労力。金銭。田んぼが減少する中、管理の負担は年々増大する。足柄平野では、閉鎖されてしまった水路が半分以上に成ると、記録されていた。舟原の下流になる欠の上の田んぼが、水路がなくなり、田んぼの耕作を止めている所がある。自然水路果しかに環境には重要であるが、コンクリート3面張りは誰が見ても解り安い所が良い。
素人の田んぼが、ドンブラコト水を張るのは、面白くないだろうな。そう言う事を勝手に感じてしまうのだ。本当の所は解らないが、昔、水路の水でもめたことは、舟原でもあったと聞く。なかった地域など、日本全国でないに違いない。この水のことが、日本の地域の相談の方法を生み出したと思う。否が応でも、話し合わざる得ない問題である。そうして、延々とした話し合いと、長い体験をとおして、不思議な慣習が出来上がる。ここであるものは、平等とか、権利とか言う、ものではすまない、人間的であり過ぎるだけに善悪併せ持つような、理屈で割り切れない部分がある。これに耐え切れなくて、田舎はいやだ、都会に出てゆく。こういう若者の何かがあった。
写真は舟原田んぼの入水路である。巾80センチ長さ8メートル。面積にして、2坪は水路に潰した。なんと、もったいないことである。しかし、昨年までは上の田んぼの入水口周辺は何時までも青かった。それを思えば、水温さえ上がれば、元が取れる。岩越さんが工夫して作ってくれた。水はジグザグ、さらに上下、渦を巻き淀みを作り、この狭い水路を進む。狭まった部分には石が置かれ、水が石に当るようにできている。この入水路の効果は、何と、なんと晴天時水温3度の上昇。曇天時1,5度の上昇の成果が出た。すごいことだ。子供だましのような工夫の積み重ねが、田んぼをとても良くする。水温1度上げれば、1俵とれる。こう言われた。今年はいいだろう。そう考えていたら、何故だか、今年は入水温自体が、高い。1度か2度必ず高い。17度か18度である。だから、20度もある日がある。と言って、6月で夏日という日が続いているのだから、今年は特別だ。