自給の暮らしの参考書

   

20数年前、自給の暮らしを手探りで、始めた。1986年の大島の大噴火が、まだ何もない土地から見えた。山北の条件の悪い、北斜面の杉林が、許された条件だった。全てが、傾斜地で、その場所に居るだけで、3倍疲れた。平らな所に居たい。これが先ずの望み。一坪の平らな土地を作る。これがスタートだ。そこに、組み立て式の簡単な物置をとどけてもらった。そこに寝泊りして、徐々に暮らしの形を探った。水は斜面にブルーシートを張って、大きなポリバケツで貯めた。飲み水は20リットルのポリタンクにつめて、担いで上がった。山北駅から、歩いて、45分はかかる。一切を手作業でやろうとしていたので、車など考えもしなかった。もちろん運転免許もない。当時は、東京に暮していて、週3日学校の講師をしていた。後の4日、山北で開墾をしていた。

ある意味、母と父が、出会ったという、相模原での戦後開墾の掘っ立て小屋での暮らしを、考えていたのかもしれない。父は、足掛け8年の中国での軍隊生活を終えて帰還し、すぐ食料に困って、相模原に開墾に入った。一方、母の弟は、東京の大学に行くので、相模原で開墾を始めていた。当時母は、富士吉田で、学校の教師をしていた、弟を手伝いに、相模原まで時々来たようだ。父は農業がなかなかできると言う事で、色々教えてもらった。父の弟は当時、東大の農学部にいたが、まるで実際の農業は出来なかった。どうしようもない、都会人の家族を見かねて手伝ってくれたのが、母の兄弟だった。隣の小屋にいた人達は、貰った薩摩の苗を枯らしたまま、飢え死にをしたそうだから、相当深刻な開墾生活だったのだろう。水が沸いているので、良い土地だと思っておじいさんが買った土地だったそうだが、それが、軍隊の水道管が壊れていた水だったと、何度も言っていた。肥料分のない土地で、当時住んでいた、世田谷の家の周辺で、馬糞を拾ってはリックにつめて運んだそうだ。

山北の土地で、そうした、暮らしの最初からやってみようと考えたのは、その話の影響もあったと思う。畑など何も知らなかったが、やはり、父と同じで母が、有力な情報源であり、戦力になった。そして、本が一番の、力となった。田んぼを作ろうとしたら、どうしたらいいのだろう。出来た田んぼを借りる。これが普通だろうが、何しろ山の中の傾斜地に、そんなものがある訳もない。お米は食べたい。東京のコンクリートの暮しでも、現代農業を繰り返し読んでいた。「チェリーブロッサム」のままだ。いつかは、と思っていた農的生活を、ついに始めてしまった。これが、やってみたら意外に出来たのだ。母の知識もあったが、現代農業でつちかった知識が、実践的だった。田んぼの作り方が書いてあったわけではないが、田んぼの姿は見えていたのだ。

学ぶと言う事は、実践が伴うと、奥まで進む。奥まで進むと、何を学べばいいかがわかってくる。大切な事は、正反対の意見として出てくるものだ。例えば、耕してはいけない。よく耕がやしなさい。実は、どちらも正しい。この両方の奥にあるものまで、知らなければ、農業に於ける、自分の本当に至れない。良い土には、雑草が生えなくなる。確かにそうだな。と思うのは、やっている人なら、すぐ分かる。しかし、理屈はおかしい、良い土になれば、雑草にだって良いはずだ。では、良い土とは何か。ここからが、本の出番だ。微生物。発酵。土壌。作物。まるで違う意見を、自分の視点から、受け入れ、咀嚼する。そしてやってみる。これが面白い。こんなに面白いことは、たぶん生きている内には、他にはないだろう。何千年の農耕の歴史と知恵に、生身の自分の命が、まみえているのだ。失った英知に、本で出会い。それを、体感する。この醍醐味が、自給自足生活だと思う。

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