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笹村 出-自給農業の記録-

『43歳頂点論』

      2026/01/24

 

登山家の書いた本に「43歳頂点論」というものがある。植村直己、長谷川博美、谷口けい、星野道夫、河野兵市、名だたる探検家が頂点である43歳で死んでいるそうだ。これには少しショックだった。私の長年の憧れの登山家加藤文太郎は41歳で冬の槍ヶ岳で死んだ。

43歳という年齢を頂点とする思いは私にもある。多くの絵描きの頂点はその頃だ。まれに100歳で死ぬ時を頂点とする。長い下り坂は余生である。社会から距離を置いて、行に生ている思いがある。つまり息を切らせたのぼり道の歩みが終わった43歳。その後34年間下り道を生きてきたことになる。

人間は43歳で、体力、気力、頭脳、感性、すべての総合力の頂点に達する。確かに、あの頃43歳の時に後は下り坂だと考えていた。ここまでに絵描きになれなかった以上、絵描きには成れないと自覚した。そうである以上違う道を歩いてみようと思った。

38歳の時に自給自足の生活の冒険に入った。どんな冒険登山よりも困難な、動物として生き抜く冒険のつもりだった。冒険の条件は、化石燃料を使わない自給自足の挑戦である。自分に課す千日回峰行のつもりだった。頂上に向けた最後の挑戦に入った。

出来ると考えて始めた冒険ではなかった。絵を描けなくなって始めた、人間再生の千日回峰を始めた。5年間で出来なければ死ねば良いと思い詰めていた。それが意外に到達できた。43歳の頃に、自給自足を完成させた。確かにあのときが生きる力の頂点であったのだろう。

それからは自信を持って、社会の部外者として生きてきた。恥げもなく趣味で絵を描いています。と言えるようになった。あれから、もう自給自足生活も40年になろうとしている。残りわずかになってきたという自覚もある。自給自足の頂点は43歳であったことに間違いがない。

しかし、43歳までの急斜面をかじりつき登った1歩一歩も面白かったが、その後のとぼとぼと歩いてきた34年間もなかなか魅力的な下り坂であった。生きると言うことは、どこで切り取っても面白いものだと思う。それはそのはずだ、好きなことだけをして生きてきたのだから当然である。

今も、のぼたん農園の冒険の最中である。人生最大の、難しい冒険であるが、冒険は大きくなり、困難が増すほど、面白さが増してくる。私が自給自足を目指した場所は、日本で一番簡単にできるはずだと考えた、丹沢の高松山山中であった。

それでも達成の可能性は小さいと考えて居たので、可能性の高い場所を探し歩いた結果選んだ場所が、高松山山麓の標高300mの場所だった。生まれた場所が山梨の藤垈で標高350mだったので、条件が近い場所が安心だったのだと思う。様々な奇跡が重なり、冒険が始められた。

今でもそうなのだが、冒険には奇跡がつきものである。奇跡が伴わない冒険はないとも言える。自分を解放して、自分を捨てて、冒険に向かえば奇跡が道を切り開いてくれる。生きると言うことは不思議に満ちている。沢山の人が助けてくれるし、神さまも助けてくれる。

冒険に単独行はない。加藤文太郎から学んだことだ。冒険は大きくなるほど、みんなで助け合う必要がある。40歳の時にはあしがら農の会の活動に進んだ。それは「1人で出来たら、みんなでね。」これが大事だと思ったからだ。1人の冒険は43歳を頂点にして終わったとも言える。

絵を描くのは1人の仕事に見える。ところが絵を描くことも共働だと思える。水彩人の活動に入ったのもたぶん絵描きになることを諦めた、43歳の頃だ。絵を描く下り坂をそれから水彩人として歩んできたようなものだ。下り坂万歳。

人生の深淵は奥深い場所にある。ゆっくり確実に下ることで、心底に至る。生きると言うことは、むしろ奥深く自分の中に降りて行くことなのではないか。43歳まで高く登ったものであれば、より長い下り道を味わいながら降りて行くことになる。そして深淵に至る。

若い時代に道を上り詰めるのは、自分の中の世界の、深く奥底まで降りるためののぼり道なのだろう。登るのは社会である。降りていくのは自分である。私にとっての方角はみんなの自給農業である。「1人で出来たらみんなでね。」共働農場のイーハトーブの冒険だった。

5年間で1人の自給自足を達成して分かったことは、地球全体が自給自足に生きる夢だった。それは気持ち一つ変われば、出来ることだと分かった。それぞれがその人らしい力を寄せれば、1人の自給の半分の力で、みんなの自給は達成できる。その自給は多様で素晴しい生き様になる。

あしがら平野に生きる7万人は、あしがら平野で自給自足で生きることが可能なのだ。そう思ってあしがら農の会を始めた。それから30年。あしがら農の会は自立した。私はいなくなり、自立して動いて行く方が、会としての方角が良いと思えるようになった。

そして石垣島に移り住み、「のぼたん農園」を始めた。まさかもう一度やるとは思わなかったのだが、また農園を始めた。43歳の頂上から思えば、70歳と言う年齢は半分のことしかやれない。当然みんなで力を寄せ合わなくては不可能な冒険である。年寄りだからこそみんなの冒険が出来る幸せ。

70歳にして、人生最大の冒険に乗り出した。人生の頂上から見れば、27年かけて降りてきた場所で、最後に大冒険を始めたことになる。これほど愉快な毎日はない。素晴しい仲間が49人にも成った。みんなが助けてくれるので、冒険はどんどん大きくなり、面白いものになっている。

目標の年限はあと6年である。目標は石垣島での自給農業技術の確立である。4年間かけて農場の土木的建設は終わった。4年間試行錯誤してきて、石垣島の自給農業の問題点は分かった。山北で挑戦した自給自足よりも、困難な冒険であることも分かった。

しかし、問題点が分かったと言うことは、後は解決の方法の探究である。腐植を増やさなければ、農地の土壌にはならない。石垣島は山の中でも落ち葉がたまったようなところがない土壌なのだ。分解が早いことと、強い紫外線で微生物が殺菌されてしまう。

この厳しい自然条件を克服するためには、まだ試行錯誤が必要である。農業技術の確立は科学的な考え方で、仮説を立てて、繰り返し実戦してみる以外に見えてこない。ネット情報は、参考にしない方が良い。参考にするのは農業高校の教科書が良い。

農業のネット情報は、何故か特異解ばかりだ。要するに自慢話ばかりなのだ。百姓は教えたがりで、自慢屋が多い。当たり前のことを言っていたのでは注目されないので、特異な事例を持ち出して、いかにもの一般論を語る。無除草。無肥料。不耕起。どれも止めた方が良い。

何故止めた方が良いかと言えば、農業ではないからだ。やれるというのであれば、のぼたん農園で場所を提供するので、収穫物だけで生き抜く覚悟でやってみて欲しい。自給農業は生き抜くための農業である。収穫物がなければ死んでしまう。最も楽で、最も確実に収穫を得る農業技術でなければならない。

そして一つ条件がある。有機農法であること。慣行農法では自給して行く永続性がない。自給農業技術には循環して行く技術である。有機農法は生きる思想でもある。自然農法という言葉でも良いが、曖昧である。基準が明確である有機農法を冒険の条件にしている。

43歳の頂上から、大分下ってきた。これからも下り続けるのだろう。100歳まで土に生きるつもりだ。そのときにどんな絵を描いているのだろうかと思う。絵は見る人が見れば分かるものだ。わたしが今をどう生きているかは絵を見れば一目瞭然である。だから水彩画日曜展示が自己確認である。

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