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笹村 出-自給農業の記録-

転ばぬ先の杖

      2025/11/25

 

「転ばぬ先の杖」用心に越したことはないということわざである。これが大嫌いである。杖などできる限り使わない方が良いに決まっている。お医者さんも父にそう言っていた。しっかり歩けるようにリハビリして、杖のお世話にならないようにと言われていた。一度使えばもう放せなくなりますよ、と。

転ぶことが怖いなら進めない。失敗など怖れてはならない。失敗を重ねるから、問題を理解できて、前進できると思っている。用心などしていたら、絵など描けない。絵を描くというのは、失敗を続けると言うことだ。その失敗をどう受け止めることが出来るかで絵は止るか、進むかが決まる。

田んぼをやるのもそうだった。はじめから成功する人など居ない。はじめから成功を願う人は、人まねで終わる人だ。本に書いてあるとおりやれば、それで良いと考える。しかし、一枚ごとに田んぼは違う。地域が違えば気候も違う。土壌も違う水も違う。自分流で良い稲作を見つけなければならない。

失敗が分からない人も居る。くだらない絵なのに、素晴しいと思い込んでいる人が大半である。だからそのくだらない絵から、一歩も前に進むことが出来ない。もちろんこれは人ごとではない。自戒している。人間はすべからくそういうものだ。

成功など期待するなら、「私絵画」はない。転ぶから自分なのだ。ダメだから自分だ。自分がダメでないはずがない。転ぶことになれて、それを糧にする。無限の失敗があるからこそ、ダメだと言うことが分かる。絵を描くと言うことはダメだという自覚とも言える。

用心深い人には冒険は出来ない。失敗のないつまらない生き方になる。たぶん絵を描くことは出来ないのだろう。成功した絵のまねをしようとしてしまう。世間で評判の絵をなぞることになる。以前イタリアの絵描きの絵を盗作して、大きな賞を貰った人が居た。そんな物だ。

盗作作家は絵を描く喜びを分からない人なのだ。出来た絵の世間での評価が問題であって、創造する喜びとは縁がない。新たなものを作り出す。これほど面白いことはない。これにいくらかでも気づけば、どうすれば人まねから抜け出るかを考えることになる。

誰もが人まねから始まる。幼稚園で描いた絵を覚えているが、海に舟が浮いていて、その空に太陽がある絵だ。もちろんそんな景色を見たこともなかった。絵に描かれたものを記憶していて、まねをして描いたはずだ。実際にあるものを見て、それを描くと言うことは出来ない。

人の顔を描く。お母さんを描きましょう。こういう画題も何度か出されたが、人の顔をへのへのもへじと描いてそれらしく書くことは出来ても、実際の記憶の中にある、お母さんを思い出して、平面の紙の上に描くという作業は、まだまだ出来なかった。

出来るようになったのは、へのへのもへじではない人の顔を描いている、お友達の絵を見てびっくりしてまねたのだ。どこまで行っても頭の中にあるお母さんの顔を描くと言うことが出来なかった。それらしく描いても、似ても似つかぬものしか出来なかったから、抵抗が大きすぎて耐えがたかった。

途中まで描いたときに、先生がまあ上手なことと、おだててくれた。とんでもないことだ、お母さんはこんなではない。と怒り心頭に達して暴発した。黒いクレヨンで顔の上を真っ黒に塗ってしまった。頭の中にある人間が描けるようになったのは、ずいぶん後のことだ。

海の上の舟の絵は、横棒を弾いてそれが水平線。その上に、舟のの書き方をどこかで見たのだと思える三角帆のヨットのような舟。そしてそらには○を描いて、回りに光の線を引いたもの。要するに図案である。デザインとしての図像は描けても、実際の海や舟とは異質。

この絵も先生が褒めたので、全部真っ黒に塗りつぶした。良いはずがないと言うことは分かっていた。自分の絵を見られることほど、耐えがたいことはなかった。自分の隠したい幼稚さが見られるという恐れと、さげすまされるという恐怖。極端に自己中心的だったわけだ。

絵は好きで描いてはいた。家のなかでの遊びでは、お絵かきは好きな方だった。全く好きにでたらめを描くだけだったが、紙を24色のクレパスで埋めると言うことが面白かったのだと思う。はみ出ないで描くと言うことが難問だったが、重なる色の面白さも、理解していた。

幸運だったことは、小学校五年生になったときに、根津壮一先生に教わることが出来た。根津先生は画家であった。最初の授業で、紙を丸めてぐしゃぐしゃにして見せた。今度は紙を水でびしょびしょにして見せた。何をやっているのかは全く分からない。先生は恐ろしい人で有名だった。厳しい顔で真剣なのだ。

そのぐしゃぐしゃのかみと、びしょびしょになった紙を広げて、今度は絵の具を塗りたくった。そして、紙という物はこう言う物だ。濡れていたり、ぐしゃぐしゃでは描けない。と教えてくれた。これを真顔で真剣にやられた。どういうことだったのかは、意味不明。

その意味は全く説明がなかったのだから、先生自身の何か思うところのあるパホーマンスだったのだろう。これが図画から、美術に変わるきっかけだったわけだ。昔の図画は手本を写すことだった。なるほど、美術というものは何をやっても良いものらしいと言うことが分かった。お絵かきの呪縛が解けた。

でたらめを真剣にやる。これが美術らしい。何しろ根津壮一先生は日展というところで受賞された誉れ高い先生だった。全く転ばぬ先どころではない。どんどん転べと教えられた気がした。先生とは、渋谷洋画人体研究所で、再開することになった。

何と小学生以来だったのに、私のことを名前まで覚えていてくれた。そして、帰りに喫茶店に寄った。お互いのデッサンを見せ合った。根津先生のデッサンは目を見張るほど、素晴しいものだった。あの頃はデッサンには自信があったのだが、まだまだ及ばないと、ここでも圧倒され教えられた。

先生の絵は光風会展で見せていただくことがあった。あの恐怖の根津先生が、まさかと言うほど穏やかな家族団らんの絵を描いていた。信じがたいものを見た気がした。厳しい絵を描かれる方だと創造していた。先生の中にあった様々な苦闘をむしろ深く感じた。苦しんだからこそ、優しい絵を描いたのかと思った。

絵は自分であると言うことを改めて思う。自分であることがどれほど難しいものかと思う。自分というものが、得体の知れないやっかいなものかと思う。今分かっているのは自分の核心ではやはりない。作り上げてきた、自分である。こうありたいという自分に向かっている形。

もっと失敗しなければならない。その先にしか自分に至る道はない。のぼたん農園も失敗ばかりである。だから、少し亜熱帯の自給農業に近づいてきた。大豆は4回失敗して、五回目に収穫までできた。お米は4年間やって、ひこばえ農法はまだまだ結果が出ない。

それでも晩生の品種で、耐病性の強い品種が必要だと言うことが分かった。来年、「あきまさり」「にこまる」「たちはるか」の3品種を作ってみる。かなりうまく行かない可能性はある。それを怖れないで作ってみることにした。失敗しなければ、ダメだという確認が出来ないからだ。いつか出来るものがあるはずだ。

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