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笹村 出-自給農業の記録-

世界一生産性の高い稲作

   

吉宮さんの西湘地域で一番の田んぼ。

日本の稲作はやっている私でも、文句を言いたいくらい生産性が低い。どの産業も国際水準から脱落してきているとしても、稲作は日本の現状の中でもダントツでひどい状態なのだ。その一番の原因は自民党政権の農家と農協の温存政策にあった。どれほど片手間な稲作農家でも、温存されたからだ。

様々な補助金で、どんな農家でも生き残れるように保護されてきたのだ。これは私の知る限り、一貫した保守政権の基本的態度だった。米価闘争などというものがあり、国会をむしろ旗で取り巻くようなデモがあった。全国の農協で動員をかけていたのだ。デモの群衆の中を勇んで農林議員が国会に入っていった。

70年前までの日本の稲作の生産性は世界一だったのだ。1955年茣蓙と弁当を持って、田植機が入った田んぼをみんなで見物に行った。屋台まででて完全にお祭り騒ぎだった。ところがその日は、田植機は故障で稼働しなかった。それは山梨の境川村藤垈の集落の戦後の姿だった。「やっぱり機械はダメじゃん」

まだ日本は瑞穂の国豊葦原の国だった。手作業で行う農業の技術は、江戸時代世界で最高の水準だった。私など未だにその200年前の伝統農業を継続しているわけだ。その私の農業の方が、小田原では農協に所属する小さな農家よりも多くお米を生産していたのだ。

何故そのような停滞が起きたかと言えば、農協と自民党農林族議員が悪かったのだ。米価という政府の買い入れ価格で補償された農業は、何も改善の無いままに、60年を過ごしてしまった。もちろんこの間農薬や機械は導入されたわけだが、基本的には稲作の専業農家から、兼業農家になり、片手間の稲作農家が生き残れる形が維持された。

稲作農家の友人が、田んぼには田植と稲刈り以外には行かないと。田んぼに毎日行くのは馬鹿だけだと豪語していた。田んぼなどそれが一番儲かるというのだ。彼は大きな農家の長男で、コンピュターソフトの開発を手がけていた。テレビに出るほど優秀な人らしかった。

その後自由流通米が登場して、政府管理から離れるように見えたのだが、結局様々な側面からの補助金が現われて、農協の指導の下、片手間農業が生き残れる仕組みが完成した。当然のことだが、それも老齢化が進み、農業者の減少は進んでいる。そしてついに起きたのが、米不足の米高騰であった。

何しろアメリカの7分の1の生産性だという。保護されていなければ消えている。こんな生産性の低い稲作の姿を一生の間に見ることになるとは、情けない。寂しいことだ。日本人のまさに劣化である。石垣島に来てさらに遅れを確認することになった。

石垣島では東北向きの品種が栽培されているのだ。沖縄県の奨励品種は東北の米なのだ。「ミルキーサマー」と「ひとめぼれ」だ。その理由は他のお米よりも、日照の影響を受けにくい東北のお米の方がマシと言うことらしい。私にはまともには作れないと思う。それでよしとしている姿に、日本の稲作の実態が現われている。

ベトナムでも、台湾でも、ジャポニカ種のお米の栽培が行われている。石垣島には熱帯農業研究所という国の研究機関があるにもかかわらず、ここでは石垣島向きのイネ品種の作出が行われていない。理由は分からないが、そんな無駄な研究に研究費が出ないと言うことなのだろう。あるいはそんなマイナーな研究をしていたのでは、浮かばれないと言うことになるのか。

石垣島でのぼたん農園を運営している。自給農業技術の研修農場である。石垣島で100坪の土地で、一日一時間働けば、自分の食べるものは確保できる研修をしている。これを自分の最後の仕事だと考えて行っている。私に残された時間があまりないので、機械を使って急いで農場を作っている。

10年で完成する目標で現在4年目である。厳しい自然環境の中、失敗を重ねながら、わずかずつ方角が見えてきたところだ。「ひこばえ農法」「アカウキクサ農法」を取り入れて、年3回イネを収穫する方法である。江戸時代に戻ることで、生産性への逆襲をしている。

自給的に生きるという意味の中での生産性は、アメリカのプランテーション農業とは違うのだ。アメリカの稲作農家はパンを食べているのでは無いのだろうか。自分が食べるものを作ると言うことの中での生産性は、暮らしに織り込まれる。ジムに通うより、田んぼを耕し歩くことになる。

暮らしを寄り深く味わうために、自給農業をやる。つまり生産費に労賃が無い。どれほど時間がかかろうが楽しみの庭仕事のようなものなのだ。しかもその先には本当の暮らしがある。石垣を自給生活の希望の島にする。一日一時間働けば、食糧は確保できる。後は自由に生きることが出来る。

まずは一つの拠点を作ることでは無いか。のぼたん農園が最初の拠点である。どうすれば自給農業が可能かを連携して研究する。次の拠点は小野酢生まれてくる。そうして石垣島に10カ所ぐらいのネットワークが出来れば、楽しい自給暮らしが生まれて行く。その美しい自給生活は世界で注目されることだろう。

いわゆる工業的な意味での生産性の高さを求めるスマート農業の方は政府がやれば良い。たぶんコンピュター革命に乗り遅れ気味の日本政府だから、世界の生産性に遅れるのはやむ得ないが、日本の自然環境であれば、ここまで低い生産性のはずが無い。お米についてはトランプ主義者になりそうな気分だ。

生産性は2分して行く。楽しみでやる自給稲作。これが一番生産性が高い稲作である。楽しい範囲でやる稲作である。美しい庭を造る人が居て、そんな暮らしが憧れのものとしてテレビで放映されることがある。何故庭なのだろうかと思う。自給の畑や田んぼの方がはるかに美しい暮らしだ。

理解されないでもかまわないことだが。ただ、アメリカよりも生産性の高い稲作がここにはあると言いたいのだ。最も低いように見える農の会の伝統農業の方が、アメリカの生産性よりも倍くらいは低コストだろう。しかも永続性がある循環型農業である。

コンピュター革命で暮らし方が変わる中で、必ず自給農業の魅力は見直されるはずだ。そこには人間らしい暮らしがあるからだ。失われて行く人間性を意識的に維持する方法が求められる時代が来る。コンピュターに巻き込まれない人間の確立が「自給農業」の中にある。

石垣島が自給農業の地域になれるように、残りの時間を使いたいと思っている。私の役割は、自給農業技術の確立である。楽しい農業である。しかも自分という人間を掘り起こす農業である。自分の中にある「みる能力」を培う農業である。しかも遊びでは無く、命がけのものである。

そこには自分の作ったもの以外は食べないというルールがある。この一つのルールで、自給農業は遊びでは無くなる。そこまで突き詰めることで、現代文明のおかげでできあがったアマチョロイ人間が作り直される。自給の確立をやりきる覚悟は千日回峰行なのだ。

私は誰にでも出来る自給農業とは言わない。実は40年近い実践の中で、出来ない人の方が多かった。それは他の人と共同できないからだ。一人で可能と考えてしまう。しかも世の中にはインチキ農業が溢れている。自給農業には、あらゆる場面に対応できる高いレベルの頭脳が必要なのだ。

共同農場の連帯である。たぶんこれが一番難しいことになるはずだ。一人はみんなのために、みんなは一人のために。この精神から人間が日に日に遠のいている。コンピュター革命のためだ。一人で出来そうに見える世界が生まれているから無理も無い。しかし、人間が本当の生きる日々を歩むためには、連帯以外にみちはないと言うことを考えなければならない。

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