地場・旬・自給

笹村 出-自給農業の記録-

何故ブログを書いているのかと聞かれた。

   

水彩人で東京に行ったときに、水彩人の一人の方から、何度もブログを書いている理由を聞かれた。それがあまり執拗な追究なので、気になった。たぶんブログで書かれている意見に不満があるのだろうと思われた。それは当然のことかもしれないが、直接は内容への抗議ではないので、判断は出来ないままである。

書いている理由は文章が旨くなりたいからだと答えた。はぐらかしていると受け取られたのだろう。本当の理由は願掛けであり言うわけにはいかない。文章を旨くなって何か意味があるのかと詰問調で言われた。文章が旨くなりたいというのは、中学生の頃からの強い願望なのだ。絵が上手くなりたいなどとは考えなかったが、文章が上手になりたいと思っていた。その理由がよく分からない。

大学に入ったときに、大山さんという小説家になりたいという人が美術部にいた。どこか他の大学を辞めて再入学された人だった。その方が何と檜枝岐出身の方だった。お父さんが檜枝岐の学校の先生だったそうだ。檜枝岐は父が柳田先生の指示で、一番通った場所である。それで急に親しくなった。

大山さんは好きな小説家の文章を原稿用紙に写していた。誰なのかは忘れた。これはすごいことだと思えた。そうだ思い出したのだが、やはり美術部の小柳さんと二人で犀川の河原に建てた家に暮らしていたのだ。その家はすごい家だった。自分たちで勝手に作ったような家だった。

実際は誰かが作って住んでいたらしい。それを安い家賃で借りて二人で暮らして居ることらしかった。そこにたぶん何度か泊めて貰った。湿気がすごいというのが印象だった。朝起きると何と大山さんが原稿用紙に誰かの文章を写していたのだ。毎朝何時間か文章が上手になるために、書いていると言うことだった。誰の文章かも教えて貰ったのだが、知らない人だった。

私も中学生の頃は志賀直哉の文章が上手なのだ。と教えられたので、書いてまで学んでいた。今は井伏鱒二の文章が好きだ。何度読んでも味わいがある。しかし書こうとは思わない。文章を学ぶと言っても私はまねて学ぶと言うことはしない。それが早い法だという人も居るが、別段早く上手になりたいと言うことでも無い。

自分なりに文章を書いていれば、いつか自分の文章になると考えて、努力を続けたいという思いだ。努力を続けること自体が好きと言うことになる。文章も自分が表れてくるのだと思う。だから、自分を高めるために文章を書いているという方が近いかもしれない。

それで、毎朝もう20年も描き続けているわけだが、上手くなったのだろうか。読みやすくなったのだろうか。繰り返し書いていれば上達するのであれば、いくらか上達していなければおかしい。どうもここには目的が無いようなものだから、人には伝わりにくいのかもしれない。

絵が良くなって、自分のものらしくなったなれれば、それでいいと言うことになる。それ自体が目標であり、それでどうすると言うことでは無い。文章についても同じである。言い換えれば修行と言うことである。何故百日回峰行をするのかを尋ねても、それぞれの問題であり、誰もに理解できる回答は無いだろう。

絵が上手になって、名声を得たいと答えれば、わかりやすいのだろう。しかし、そういうことは絵の修行にはない。名声とか栄誉とかを目指す努力は無駄どころか人間の悪行なのだ。人間の完成という観点から考えれば、そうした努力は悪人を造り出すことになる。

それが最近の拝金主義の世界が現世の姿だ。金儲けが上手くなる修行など無い。修行には正しい方角がある。毎日パソコンゲームをやり、ゲーマーになり一億円プレーヤーになる。そういう教育ママも居るのかもしれない。こう言う努力は悪行である。生きる方角が悪い。

人間は何のために生きるのかと言うことにいたる。自分の命全体を生ききりたいのだ。楽しいと言うことにも深さには違いある。何が楽しいかと言えば、子供の頃の楽しさと、今生きている楽しさとは大きく違う。楽しさの深さが違う。生きるを重ねる内に、前よりは深いところにある楽しみを感じられるようになった。

子供の頃は自分の為の喜びだけを感じていた。今は自分が嬉しいと言うよりも、みんなに喜んでもらえるということの方が、はるかに楽しいことになった。それは自分が嬉しいと言うことよりも、かなり難しいことだと言うことも理解できるようになった。そうみんなが楽しんでくれるような文章が書ければ素晴らしい。

絵を描くという喜びは限りなく深い。面白さは他に代えがたい。しかし、私の絵が人を喜ばすと言うことは、出来るのだろうかと思う。しかもその喜びが人間が生きる深いところでの共感として、伝わるものであるはずだと考えて居る。そのための日々の修行なのだと考えて居る。

文章を書くと言うことも同じことだ。毎日3000字の文章を書くと決めて行っている。大学の時のレポートの長さである。これを継続することを修行の一つだと決めている。ブログという形でホームページに上げているのも修行の継続のためである。一日でも休めば、もう続かない。

要するに乞食禅なのだ。以前は何者かになりたいではダメだ。と悲観していたのだが、ダメはダメなりの生き方があると考えた。座禅のように形のないものを継続が出来ない人間だったのだ。どうせダメならば、絵を描く修行、文章を書く修行。形のある修行でもやらないよりは増しと考えた。

早朝座禅のつもりで文章を書く。しかし、毎朝書いている内に文章を書く喜びというものがあると言うことも知った。だから苦行では無い。楽行である。文章を書いていて一つだけ確かに学んだものがある。それは文章を書くと言うことは頭の中にある生まれてくるものを写していることだと言うことだ。

頭の中に湧いてくる何かに従って今も文章を書いている。考えて書いているわけでは無い。何か頭の中で浮き上がってくる文章を写している。だから、考えて文章を作ると言うよりも、頭の中の何かに従っているという感じがする。そのためにはキーボードの速度が重要になる。

頭に湧いてくる速度でキーボード入力が出来ないと、湧いてくるものが滞る。それでキーボード入力は3級ぐらいの速度になった。頭に湧いてくる速度が3級ぐらいなのだ。それ以上早くても頭の中を挽く出すことは出来ない。遅いのもダメだ。私の脳の能力が3級ぐらいなのだと。

頭から湧いてくるものに従う。それがいつの間にか絵を描くことにも移ったようだ。記憶がよみがえる速度で絵を描いている。記憶の世界を繰り返し描いている内に、いつの間にか、今みているものを絵として記憶していることが増えた。みると言うことの、見方が変わった気がする。

どこか世界を絵としてみているようなことが増えた。それは断片である。その断片が絵を描いているときによみがえる。あの雲の形というような千切れ千切れに頭の中に浮かんでくる。これは文章を書いている内に身についた頭の動きに似ている。毎朝20年も続けている内に脳の動きがそんな具合になって来たのかもしれない。

良いのか悪いのかは全く分からない。良い面もあり、悪い面もあるのだろう。このやり方でもう少しやってみるつもりだ。文章を書くと言うことは、頭の中を言語化することである。言語化して明確にする。文章にして気づくと言うこともままある。今朝の文章修行はこれで終わりだ。

Related Images:

おすすめ記事

 - 暮らし, 身辺雑記