米の生産調整は廃止すべきか

      2025/06/26

米価格が一年の間に、2倍に高騰した。これを機に稲作に対する政策を見直そうという動きが出てきている。小泉さんに是非立て直しをして貰いたい。お米はかつては日本の農家の基盤となる作物だった。今でも主要作物ではあるが、基盤とまでは言えないところまで縮小して来た。その理由は生産コストの世界との差ににある。

日本の米作りは大型農家と、小規模農家に2分している。大型農家の生産コストは、世界水準から見ても、何とか適正なものになりつつある。ところが小規模農家の稲作はその継続が経営とは言いがたいところにあり、補助金なしには成り立たない物になっている。

自民党と農協と地方政治が結びつき、政治的配慮という、あまり合理性のない形で小規模農家救済策が続いてきてしまった。プランテーション農業を経験したことのない、日本人は農業の形態を江戸時代に徳川幕府が、展開した小作人制度のまま温存したのだ。農地解放が行われはしたが、農家の心情は江戸時代のままに変わらなかった。

地方の中山間地に多い、小規模農家に維持して貰うことが、地方の社会の基盤の維持でもあるので、たしかに単純な問題ではない。地方創生と環境問題と小規模農家の関係を、明確に解きほぐす必要がある。その上で、小規模農家の維持の仕方を公明正大に議論しなければならない。そこで問題になるのが、生産調整という減反補助金のことである。

それでも、世論の動向も、経済学者の意見も、米の生産調整は現状では止めた方が良いという流れである。確かに米作りをしてきた私の考えも、補助金がダメにしたと、その通りではあるのだが、廃止した結果起こる、地方社会の衰退は予測できる。地方が消滅する日本の危機を、同時に考えなくてはならないだろう。

もちろん地方社会など無くなってもかまわない。というのが経済合理性なのかもしれない。新自由主義経済の原理と言うことだろうが、それもまた、トランプの主張するアメリカ一国主義に至り、世界経済の崩壊を招いている。やはり、日本は日本として、38%しかない食糧自給をどうするかを考えざる得ない状況でもある。

国際競争力のある企業が日本を支えると言う考え方を徹底して行けば、当然小さな農家など無ければ良いだけなのだろう。地方が疲弊して、荒れ放題になろうともさしたる痛みもないのが、企業を中心にした都市の経済の考え方だろう。自然環境維持など、ガス抜き程度にしておくのが良いと言うことになる。

小さな自給的農家の社会的な意味での、存在意義を問い直さなければならない。人間が生きて行くと言うことは、どういうことなのか。人間が都市の中で生きるようになり、一次産業に従事しなくなる。それでも人間でいられるのだろうか。マロニエの緑を見て吐き気を催す人間で良いのだろうか。

もし自然を存在させた方が良いというのであれば、その残すべき地域を明確にして、その残す意義とその経皮も明確にしなければならない。そうでなければ、中山間地に多く存在する、自給的農家は結局のところ無くなり、地方社会もなくなるのかもしれない。

現在存在する自給的農家は、社会のはず真産業のような不思議な成立をしている。アパート経営で食いつないで、何とか赤字農業を続ける。地方に進出した工場で働き、それで何とか小さな農家を維持している。そうした今も残る小さな農家の思いは、江戸時代から継続してきた農本主義の結果なのかもしれない。

ついこの前までの日本は、都会だけの国ではなかった。地方の社会があった方が良いというのであれば、特定の地域では農業をしていれば、生きて行けるだけの補助金が必要になる。もしそんな補助金がないし、また地方社会はなくなっても仕方が無いと言うことが、国民の総意であれば、この先の停滞と衰退の日本を受け入れるほか無いのかもしれない。

実際にはそういう経済至上主義社会の流れにも見えるのだから、無理に国が押しとどめてもダメかもしれない。日本の地方社会を維持してきた理念というか、日本人の意識が、失われている。建前としての、地方創生なども諦めた方が良いと言うことかもしれない。この点悲観的にならざる得ない。

しかし、自然を見て美しいというのが、本来の人間であれば戻らなければならない。絵を描いてきて分かったことは、私の求める芸術の基本は自然の総合を表現すると言うことだと思うようになった。人間が自然と関わり、手入れをしながら自然の中に、その総合に受け入れていただく。それが絵を描き、生きるという喜びだと言うことだった。

地方社会と農業補助金。その象徴であるお米の生産調整金の問題は、日本の方角をどうするのかと言うことになる。経済第一主義を離れても、地方社会は維持すべきだというのであれば、生産調整金に変わる、中山間地の農家の個別補償を考えざる得ないだろう。経済合理性のないところで行われる、小さな農家の継続はもう限界である。

これは日本の岐路に関わる問題だと思う。民主主義国家である以上、国民全員でとことん考えて、方向付けをする必要がある。国際競争力が無い国になるとしても、経済的に中堅の国になるとしても、地方社会を大都市が支えて行くことを受け入れるのかである。たぶんそれは無理なことなのだろう。

それでお地方の一次産業が根付く社会があった良いと思う。このまま国際競争力を求めて、日本が進んで行こうとすれば、自然環境が崩れ、地方は放棄され、維持の出来ない状況になる。日本人の九割が都市に暮らし、1割くらいの特殊な人が地方で暮らすという社会になる。すでに一次産業4%の国である。当然地方はインフラはない社会になる。

お米の生産調整金の廃止は、そこまで考えた上でどうするかの問題だ。ただ米価をどうするかの問題ではない。もちろん国際競争力の無い産業を残した方が良いとは思わない。しかし、すべての産業が国際競争力で選別されて行けば、失ってはならない物を失ってしまうのも現実だろう。

コンピュター革命が進めば、人間は頭脳だけの、コンピュターに従う社会に生きることになる。そうした社会の中で、人間を保つためには、つまり美しい物を見て感動する人間を保つためには、自然との関わりを維持しなければならない。自然という物はやはりすごい物で、そこから人間が出来たと言うことがよく分かる。

地方社会を残すと言うことは、コンピュター革命後の社会で、経済合理性はないが、人間らしく生きるという、よく分からない価値観の社会を残すと言うことではないか。国際競争力だけを考えれば、そんな余裕はないと言うことになりそうだが、人間性を失った物と競争は、やはり人間性のある方が勝つのではないか。

自然の絶対的な魅力。種を蒔けば、発芽してくる自然の不思議。自然の中に人間が行かされていると言うことを、しっかりと抑えられる人間らしい人間がコンピュター革命後の社会では意味があるのだと思いたい。日本には幸いのこと、たぐいまれな自然環境がある。この自然の中で生きることで、人間を目覚めさせることが出来る。

たぶん少数派の生き方には成るのだろうが、その少数派が世界の希望になる可能性はあると思っている。自然に即応して生きる人間のちから。自然の中に自分を委ねることの出来る人間。人間は自分の身体だけで生きることが出来るという安心立命。国の政治も、このことを忘れないで欲しいと思う。

 

 

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