2025年の収穫が終わる。
8番田んぼは稲刈りまであと1ヶ月。
無事、のぼたん農園の1,2,3,6,番田んぼの、2025年一回目のお米の収穫が終わった。のぼたん農園に移り、4年目の収穫である。米作りは35年続けてきたことなのに、少しも慣れることがない。初めての時と同じように緊張していた。小さな農園のことではあるが、日本の未来に関わることだと、本気で考えている。
自給農業の確立である。米作りは大型の企業農家が行う経済合理性のある農業と、小さな経済とは切り離された、自給農業に分離して行くと考えて居る。大規模稲作の成立もまだまだ困難が続いているわけだが、それは自給農業も同じである。たぶん数から言えば、企業農家を目指す人の数よりも、自給農業を目指す人の数の方が今は多い気がする。にもかかわらず、その農業技術が確立されていない。
社会的に企業農家の動きに注目は行くのだろうが、日本人のコンピュター革命後の世界のことを考えたならば、自給農業の動きの方が大きな影響を生むだろうと考えて居る。自給農業は当然国の産牛政策から見れば、外れた物である。だから、自給農業の確立のためには、自給農業を目指すものが探求して行くほかない。
6番田んぼのひこばえ。今年は今の所期待できる政調である。
例えば、国は大規模企業的農家向きのイネの新品種を作出するだろうが、自給農業に関しては、全く目に入らないはずだ。しかし、日本人がこれからどうなるのかと言うことを考えれば、自給農業の確立の方が、遙かに大きな影響を与えることになると考えて居る。それは人間と自然との関係が重要になるからだ。
世界はコンピュター革命の進行の最中にある。コンピュター革命は産業革命と同じように人間の生き方を変えるはずだ。国を動かしている多くの人は、産業革命を乗り切った成功者達の末裔だから、産業革命の変容くらいで考えて居る。しかしコンピュター革命は、人間の暮らしを驚くほど変えることになる。自然との距離を遠ざけるだろう。
狩猟で暮らしていた人類が、農耕をするようになって変わったことと同じくらい人間の暮らしをかえるはずだ。大規模農業の登場は産業革命が農業分野で徹底されると言うことで、プランテーション農業を経験した農業先進国ではすでに変革が終わったことである。日本には千年以上も続いた農家一族という存在があり、変革が遅れた。
3番田んぼのひこばえ。稲刈り5日目。と3日目。
日本の農業変革が遅れている間にコンピュター革命の時代が侵攻してきたために、日本の稲作農業では産業革命とコンピュター革命が同時進行している。しかも、古い形の農家制度というか、家族制度までが今もって影響をしていて、混沌状況のまま、次の時代に突入しようとしている。お米の価格が倍増したこともそんな混乱の表れである。
次の時代は大規模企業農家が農業生産をになうことになる。これは小さな農家にとってたまらない話だが、間違いが無い。小さい伝統的農家は消えているだろう。政府が様々な形で残そうとするだろうが、経済合理性のないものが淘汰されるのは当然のことだ。そして、その経済合理性からさらに外れる「自給農家」が何らかの形で広がり始めるはずだ。
このことは、40年前にそのように考え、自給自足を始めた。その当時は農家がなくなり、企業農家と自給農家になる考え方はあまり広まっていなかったが、今ではほぼ常識とされてきたのではないか。しかし、40年かかってもまだ道半ばというほど、経済合理性のない農家の温存に政府は無駄な努力をしてきた。
自給農家が広がる理由は、日本には大規模企業農業では経済合理性のない農地がある。中山間地に細切れの、大量の優良農地が存在するからだ。中山間地や離島における条件不利地域にむしろ、優良な農地が放棄されて行くと言うことになる。その優良ではあるが、企業経営的には成立しない農地は、産業としては無視されて行くことだろう。
2番田んぼのゆがふもちのひこばえ。一番生育が良い。稲刈り2週間目。
国は地方創生とか一応は主張するが、地方が徐々に過疎化して、衰退して行くのは経済合理性からして、当然の結果になる。一次産業の従事者が4%にまで減少し、外国人労働者が企業的農家に雇用されている状況だ。衰退して行く地方に税金を回すよりも、世界との経済競争に勝つために税金は使われることだろう。地方の人口がさらに減少して行き、政治からも見放されて行く。
50年前に考えた農業の流れは、予測通りの結果であった。たぶん、これから50年先の農業の形も予測から大きくは外れないのだろうと思う。それでも人間はまだ、自然界からの産物を食べて生きているだろう。国からある意味見捨てられた地域での自給農業の成立である。人間が人間らしく生きて行くことが出来る状況がそこに生まれると考えて居る。
人間は一日1時間食料のために働けば生きて行くことが出来る。これが私が35年かけて体験的に確認した事実だ。そのためには地域地域に適合した「自給農業技術の確立」が必要だ。空想的農業の話ではない。実際にそこで採れた食べ物だけで生きると決めたものだかけが、到達できる世界である。
1番田んぼのひこばえ。稲刈り2週間目。今年は期待が出来そうだ。目標は50キロ。
耕さない、草を取らない。虫と共生する。何でもかまわないが、そこで採れた作物以外は食べない覚悟の上の話だ。食べるものがなければお金を出して食べ物を購入する、お遊びの自給農業では話にならない。それくらいなら止めた方が良い。覚悟がないものには意味が無いのが、自給農業の世界観である。
自給農業はコンピュター革命下の世界での、人間という物の確信の探求なのだ。人間は何であり、どう生きるべきかを探求するために、人間の原点と言うべき食料を生産するというところまで降りて見ると言うことになる。しかも、それは宗教的な生き方ではなく、どこまでも科学的な生き方のことになる。
その根底にある物が、自給農業技術である。自分の体力だけで、食料を生産する技術である。科学的な技術とは、どこの誰であっても同じように行えば、同じになる技術である。特殊性は全くない。もちろん小田原で行う場合と石垣島で行う場合は大きく違う。気候も土壌も違う。しかし、その根本にある農業技術に対する考え方は同じである。
種を蒔き、芽が出る。その不思議の科学的解明である。ありとあらゆる物が、総合として影響する。その全体を見る力を養うことになる。そして、その農業力の総合的結果は、収穫物という形で表現される。来年の百姓という言葉があるが、来年まで自給の作物で生きていられれば、幸いである。
自然と人間の関係を見つめ直すと言うことだ。自然という物に人間が行かされていると言うことを身体で知ることだ。コンピュター革命後の世界では人間は自然から切り離される。人間がコンピュター化される。このゆがみを回復するためには、自然の中で生きると言うことが、何より必要になる。
2025年のイネ作りは最初の収穫では一定の成果を上げた。石垣島での自給農業技術の確立を10年間で達成する計画で進んでいる。今年が4年目である。3年間はのぼたん農園の農場建設に費やされた。田んぼと自給の畑の組み合わせが7枚。畑が7枚である。溜め池が4つ。そして、のぼたん自生地の管理。水源の森づくり。水牛放牧地が2つ。
3年間で出来た形を、いよいよ実際に運用して、生産物をあげて行く年に入った。今年の目標はお米は年3回収穫する技術の確立である。これが石垣島の気候に適合した、自給技術だと考えて居る。百坪の自給単位で2畝の田んぼで、一回50キロの収穫を行い、ひこばえを含めて3回の収穫を実現する。
一回目は概ね実現できた。現在4つの田んぼでひこばえの栽培に入っている。このひこばえを健全に育てることが次の目標である。にじのきらめきは耐病性が強い感じがする。この点ではひこばえ栽培向きの品種ではないかと思われる。引き映えが一次文節から再生する率も高い。