不安な社会の生き方

   


 飛行機からの写真である。一番奥の方の、あの白茶色のところが、自衛隊ミサイル基地予定地である。於茂登岳の裾野で、水が沢山湧いていたところである。ここで湧いた水が、宮良川の水源の一つになっていた。石垣島の農業用水の水源地帯である。

 この水源が例えばピーホスのような物で汚染されたならば、石垣島の農作物が汚染されることになる。ここを水源地帯だとNHKが放映した。当然の問題点だ。ところが中山市長は水源ではないと抗議をして、番組の審査を要求した。明らかに水源である。NHK報道が正しかったのだ。何を血迷ったのかと思う。

 石垣島はミサイル基地化して行くだろう。アメリカの前線基地の犠牲の島になろうとしている。それを市長自らが推進しているのだから、居たたまれない不安が襲う。市長に対する平和教育のやり直しが必要である。平和の努力をせず、戦う覚悟だけの平和教育。石垣市民として、大きなストレスの中にいる。

  現代社会はストレス社会と言われている。若い人にとって未来が見えない、理解しにくい不安な社会ではないだろうか。時代が大きく変わろうとしている。新しいコンピュター社会の出現である。産業革命以上の変化を社会をもたらすに違いない。社会の成り立ちを変えるほどのもにに成るだろう。

 それは資本主義の末期的状況と相まって、未来の見えない社会になった。これからの新しい社会がどんな社会になるのかは、明確な予測はないのだろう。人間は滅んでしまうのかも知れないという、大きな不安を抱えた社会だ。この新しい社会で生きて行く若者には大変な社会だ。

 生きて行く不安とは何なのだろう。不安とは生きている手応えだと私は思っている。手応えがなければ、生きている甲斐がない。不安がストレスになる。ストレスは万病の元だが、ストレスなし状態では年寄には、すぐにもボケるだろう。この次の社会に向けた不安は、可能性として受け止める方が良いだろう。

 日々不安があるから、人間は生きている実感があるのだ。ストレスという言葉は日本語の説明では、生体に、外傷・中毒・寒冷・伝染病・精神的緊張などの刺激が加わったとき、生体の示す反応。と書いてある。書いてはあるが、精神的緊張とは、ストレスとは違う感触だ。緊張よりも不安ではないか。

 心に漂い、心をさいなむ、得も言われぬ不安感がストレスだろう。私が何としても自分の絵が描きたいと考えているにも関わらず、それが出来ない。そこへ努力する方法も分からない。この状態はストレス状態なのだろう。しかし、それは自ら作った壁である。生きるには壁が必要だと考えていつの間にか自ら作り上げたのだろう。

 この作り上げた壁に向かうことで、不安を解消しているとも言える。絵を描いているから大丈夫だと思いたいのだろう。自分の命の一日を大切に生きる事ができれば安心である。問題は何をやることが自分の大切かと言うことになる。

 人間が生きるのはなかなかやっかいな物だ。必ず嫌なことはある。自分が避けたいと思っても、嫌なことは回りから迫ってくる。避けようもない。これを嫌なことだと深く感じてしまえば、どんどん辛くなる。また来たぞ。さあ来たぞ。どう味わってやるか。と対応することにしている。

 生きている以上日々嫌なことが起こる。誰かの一言が心に刺さり不安にさいなまれる。自分が口に出してしまった一言にくよくよ後悔する。人間はどうしようもないのが当たり前のものだから、悪いことばかりだ。また、それを繰り返してしまうだろうと思うと、不安感に取り巻かれる。

 このような社会であれば、よほどの極楽とんぼを除けば、くよくよしていて当たり前だろう。世界は崩壊するかも知れない。気候変動、環境汚染。故人の時限ではどうにもならない社会だ。この行き詰まった状況で戦争が行われているのだ。政府は中国が攻めてくるから、「戦う覚悟を持て」と叫んでいるのだ。不安にならない人はいないだろう。

 若い人であれば、これから新たな仕事をするわけだ。仕事に挑むことは不安ではあるが、さあやってやるぞと、気持ちが高ぶるところもあるだろう。しかも、これからは到底かなわないコンピュターと戦わなければならない。原子爆弾と戦う覚悟を持てと言われている。若い人の未来はどれほど大変なことかと考えざる得ない。

 将来の展望が持てない、やる気が出ない。引きこもりになる人がいるのは無理もない。それは日本だけでなく世界中に広がっているに違いない。こんな社会にした責任ある立場の人間が、戦う覚悟を持て、などと叫ぶのだ。こんな社会では戦うことなど出来ない、へなちょこりの軟弱者が一番だ。

 政府はやる気が出るような希望のある社会を作れと言いたい。公正でない社会。極端な能力主義の社会。格差社会。この中に生きて行くことに不安を感じて当たり前だ。まず、悪いのは自分ではないことを認識すべきだろう。自分にはどうにもならない現実を、社会が作り出しているのだ。

 これを受け入れると言うことは、自分を殺さなければならない。受け入れなくて良いのだ。自分という物を探して生きる事が生きる目標であるにもかかわらず、その自分にこだわれば、苦しくて生きていけないような社会なのだ。どうにもしようがないのは自分ではなく、社会が余りにひどい状況なのだ。

 しかし、生きていく以上そうも言ってはいられない。「ダメでもいいじゃん。」心の中でこうつぶやくことにしている。ダメなのは当たり前だと思う。ダメじゃ無いはずがないと思う。上手く行かなくて当たり前なのだ。よい結果が得られなくても、そんな物だ。

 ダメでも諦めないで、続けて行こう。結果よりもやったことに意味があると思うことにしている。毎日一枚絵を描く。よい絵でないのは仕方がない。自分に立ち向かっているかどうかである。問題があるとすれば、絵を描かないことにある。どんな絵でも一枚は描くと決めて、継続する。

 これだけが心の不安を解く唯一の方法である。やってダメならば仕方がないと受け入れることが出来る。やらないことが一番ストレスを溜めることになる。それが絶望に繋がる。仕方がないことを受け入れられるためには継続すること。私の場合は日曜展示を続けている。

 このブログも、毎日書くと決めたのが、2006年である。決めて継続する。これがストレス何よりの薬だ。自分はタフだとか、思い込むのも危険だ。ストレスは誰にも襲いかかる。決めたことを継続して行く。成果が出る、出ないは考えない。やることはやっている。

 絵を描くことも、ブログを書くことも、農業をやることも、一人で出来ることだ。これが演劇をやるとか、野球をやるとか言うことであれば、大勢の人とやらなければならない。それが出来ればそれも良いが、それが出来なくとも一人でやれることはある。農業などストレス解消に実によい。

 身体を動かすのはいい。身体が厳しい間は余計なことを考えていられない。最初はすこしづつだ。初めての人の1時間の厳しさは、長年やってきた私の10時間と変わらない。やれる範囲ですこしづつやる。そのうち景色が変わる。身体は変わる。元気があれば何でも出来る。とは猪木流。

 自分の作った作物を食べる。安心という薬だ。大きな安堵感を得る。生きて行けるかも知れないと思える。毎日2時間農作業をすれば、自分が食べるものは自給できる。この安心感は何にも代えがたい。不安を感じたら。ストレスを感じたら、いたたまれなくなったら、自給農業を始めることだ。

 自分の食べるものを作るという、人間の一番原初的な行為に立ち戻れば、何かが見えてくるものだと思っている。身体を動かして、自分の命を養う。この行為は誰にも否定できない確かな行為である。この地点に立ち戻れば、自分の生きる事の安心立命が見えるかも知れない。

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