色彩には3つある。


キャロットタワーに展示して貰っている作品を新しいものに変えた。季節毎に変えようかと考えている。
絵を描く上で、色彩には3つの考え方がある。一つは固有色と言われる、そのもの自体が持つ色を求めるという考え方である。本来色は反射しているものだから、そのものが反射する色彩と言うことなのだが、そもものの本質をあらわすような 色彩という考え方。
ものそのものが発するような色という意味で固有色という考え方がある。印象派が色というものは光で在ると、分析的に色を考えた事への反動のような光の見方なのかも知れない。ものには宿る色彩があると考えた方が、ものの実在に迫ることが出来る。
そして2つめが自然の色である。自然界にある普通の色である。写真で撮影するような、日常的に見ている色彩である。特別に絵を描くという眼で見ない色彩と言っても良いのかも知れない。ありのままの自然の色ということが、科学的にあり得るかは別のことである。
最後の3つめが絵の具の色である。絵の具毎に顔料から作られた素材にある色である。現代では塗料の開発が進み、大半の顔料は顔料会社が生産する。見ている対象の色ではなく、画面の上に置かれる、絵の具という材料としての、意味を伴わない色見本のような色のことである。
絵画を考える上で、色彩をこの3つの内でどのように考えて使っているかは重要なことになると考えてきた。赤い薔薇を描くとしたときに、赤い薔薇の花びらとして描くのか、赤い色をその場所に置くのか。赤い色に伴う自分の思いを託すのか。絵を描くという場合そうした違いが重要になる。
多くの画家は固有色と言うことを意識した。薔薇の赤には薔薇の赤ならではの色彩があり、その薔薇の赤の本質を表わす色に迫ろうとした。しかし、マチスに至ると、赤は絵の具の赤であり、服の赤も、薔薇の花びらの赤も赤い絵の具の色としてしか見ない絵が出てくる。
花びららしい質感を伴う赤と言うような固有色の意味はない。あくまで画面の上で他の色との関係で、その絵の具の赤が適切に置かれるだけである。赤に意味は無く、赤い色面の形と位置と大きさが、他の色との関係の中で決まってくる。と言うのが私がマチスを評価している、側面である。
というのはマチスは実は多様な画家で、様々な絵を描いているから、割り切れない絵も多いのだ。多くの人が評価するのはおしゃれなデザイナーとしてのマチス出ないかと思う。しかし、このマチスの色彩を科学的な客観性の中で見ようという試みが、絵の結論のようであったのだ。固有色の時代は個別性の問題である。
近代絵画が自己表現である以上、色彩はあくまで主観的なもので、客観性などいらなかったのだ。私が見ていて、何かを感じる薔薇の赤が重要で、その赤に自己を投影し、薔薇の赤に自分の世界観の表現に繋げようとしたのだ。梅原の薔薇もそういう赤である。
誰もが見る自然色である薔薇の赤から、抜け出ようとしたのだ。所がマチスが、その自己表現としての薔薇の赤から、客観性のある、いわば科学的に割り出せるような、言葉に置き換えられるような、数値で示せるような、素材の赤こそ絵画の基本要素だと当たり前の主張をした。
このことで、絵画は様相が変り、自己表現から絵画は離れ、自分の思想哲学を、色彩の組み合わせで説明のようなものに変った。この意味の説明の仕方が、いわばデザイン的になり、絵が人間によって描かれるものから、コンピュターが描くものに変化をしたとも言える。
確かにそうなのだと思うのだが、そういう断面からだけマチスは考えられない複雑性を持っている。いくつもの思想を持った人間が、様々な角度から絵画を分析し、絵画というものを探ろうとしていたのだろう。そうして絵画を分解したことから、20歳の私はそこから始めることが出来ると考えたのだが甘かった。
この絵の見方は単純に整理しすぎていて、こういう方角が主流である事は間違いが無いと思うが、こんな考えに収まらない多様な絵画を存在させようとする努力がある。しかし、マチスの登場はここから次の画家は出発できる幸運に居ると思われたのだが、実はマチスの絵画は結論で、ある意味発展性がなかった。
マチスの影響は世界中に及んでいるが、マチスを超えるような絵画はついに現われることなく、むしろ絵画が失われる時代に入り込んでいった。そして絵画は見るものという意味を失い、制作をするという意味に特化してきたと言って良い。それが、私絵画の時代である。
描く人には大きな影響を与え続けている。絵画を見る人は実に多くなったわけだが、その見る対象は過去の絵画である。現代の絵画はいわば、バンクシーに代表されるように絵画として、鑑賞する価値は失われている。ゴッホの絵画に感銘する人であれば、失望する絵画ばかりである。
それはIT時代と言うことなのだ。絵画はいくらでも再現されるし、希少性というものは失われた。モナリザと同じとしか見えない複製を作れる時代に入った。音楽がレコードが出来て、演奏家全盛になり、クラシックの作曲家がほとんどいなくなったのと同じことが、絵画でも起きているのだ。
私はマチスの考えてくれた色彩の考え方で絵を描いている。例えば海を青で描く時に、海だと思わない。青い色面だと思う。緑で草原を書いているのに、草原だとは考えない。見て移していることはない。ただ、画面上に自分の考える世界を構成している。
構成するに際して、ものの意味よりも、色と調子に依存している。海であるということよりも、こんな調子の青がここに在ることはどのようなことになるのか。自分らしいのではないかということが、制作の判断の羅針盤になる。
それが「私絵画」と名付けた絵の描き方である。自分の中にある自分らしきものは、色の組み合わせと色の置き方調子にによって出来上がると言うことになる。人間は見ていると言うことで、世界を形成している。観ている世界は万人似ているようで、まるで異なるものだ。
この自分らしきものが観ている世界に特化して行くことが自分の絵を描くと言うことになる。自分が見ている。と言うことは複雑で、見たいものを見て世界を形成している。この蓄積された記憶を、色彩によって再現することが、自るンの世界観の表現になるのではないかと考えている。