日本人の誕生と縄文時代

最近縄文時代のことが話題になる。私が生まれた頃に岡本太郎氏が縄文時代を「なんだこれは!」と発見した時代なのだ。それまでは日本美術史の中になかったのだ。縄文のビーナスと言われる土偶が国宝に指定されたのは1995年のことである。火炎形土器は十日町で発掘され1999年に国宝指定された。
縄文の美術はあまりに日本人離れしている。と思われていたのだ。日本人はもう少し繊細で、情緒的な人間だと考えられていた。小学校の頃はまだ縄文人は、日本人ではなく、弥生人が日本にやってきて日本人になったのだという考えが主流だったと思う。
今では三内丸山遺跡が発掘され、縄文時代の姿が少し明らかになりつつある。縄文時代を通して日本人が誕生したと考えて、間違いないようだ。びっくりしたことは、山栗や里芋、ひえやあわ、そば、稲、エゴマ、菜の花、ひょうたん、栗やクルミやドングリ、採取はもちろんのことだが、栽培的な作物作りが始まっていたことが見えてきている。

そして、最近では縄文文化が世界の古代の4大文明に匹敵する文明だという見方が、日本では着目され始めている。日本人はすぐ自分たちが特別だと言いたがる人がいて、恥ずかしい。縄文人は世界最古の土器を作り出した人たちの一つだったことは、確かなようだ。火炎形土器は1万4000年も続く長い縄文時代の、中期に作られたものとされている。
土偶は確かに魅力的な造形である。日本の彫刻の歴史の中でも傑出していると思う。力のこもった活力のある造形だ。しかも荒削りではなく、完成している。そして、作るとこれをわざわざ壊したと言われている。だから完品のものは少ない。壊すことでそこの怪我などを治そうとした祈りの造形だと言われている。
四つの古代文明はそれぞれに大河のほとりに生まれた。しかし縄文人は日本列島に暮らしていた。その意味ではかなり他の文明とは違うし、世界の4大文明に比べるて云々するようなものでもないと思う。ただ、日本列島で地味ではあるが、独特な文化の感覚を持った人が暮らしをしていた人が、すでに4万年前の古代文明の時代にいたと言うことは確かだ。
縄文時代は一般的に1万6000±850年前に始まると考えられている 。長江文明が紀元前5000年なのだから、それよりもかなり古い時代から、縄文文化は始まっている。縄文人の祖先はアフリカより5万年前に旅立ち、長い1万年一万キロの旅を経て、4万年ぐらい前に日本列島に到達している。
この人類の旅を考えるとなんとも言えない気持ちになる。何故人類の祖先達が移動を始めたのかは、それが知脳レベルの高い動物集団だったからと考えることが自然なのだろう。初期の人類は狩猟採取で生きていただろう。餌を求めて移動している動物集団だったのだろうか。様々な要因で食べるものがなくなると、食料のある場所を求めて移動していたと考えられる。
それが1万年かけてアフリカから、日本列島にたどり着いた。まっすぐに来たとして、1年に1キロ移動し続けたことになる。100年に一回4世代ごとに100キロ移動したぐらいだろうか。移動し続けていたことだけは確かだ。戦いに敗れて逃げると言うこともあっただろうが、食料を求めて移動したと考えることが自然だ。
採取的に暮らしていれば、食べ物は同じ場所ではだんだん減ってくる。同じ場所で安定的に暮らしていれば、人口も増加するかもしれない。次の場所を求めて移動せざる得ない人たちが生まれる。そして流れ流れた旅の果てに日本列島という最果ての行き止まりの地があった。
4万年前に日本列島にたどり着いた人類は、餌がなくなってきて移動するにも、もうこの先行く当てがなかったのだ。海を渡った人もいただろうが、大半の人は日本列島という、ある程度食料の豊かな地で、とどまり工夫をして暮らそうとする以外になかったのではないか。
そのことはつまり定住期間が長くなったのだ。食料を採取的に得るだけではなく、次第に栽培的に食料を得るようになったのだろう。そういう暮らしが同じ場所で、何万年も続くことで、次第に土器が生まれることになる。土器は定住文化がなければ生まれるものではない。あんなものは移動には邪魔だ。
日本列島がこの先がない土地だったと言うことで、定住せざる得なかったことになる。定住化で縄文人が徐々に形成されることになったのだろう。そして、他には例を見ないような、移動の少ない1万4000年も継続する文化を生み出し営むことになる。
この日本列島という行き止まりの地には、その後も様々な人たちがたどり着くことになる。たどり着く人たちが、違った文化を、新しい技術を持っていたに違いない。その文化との融合が文化の変化を生み、徐々に洗練されたものになったのではないだろうか。このまぜこぜが日本人の誕生である。
土偶や火炎形土器の独創性は、はっきりと縄文時代人の特徴ある文化を作り出している。様々な文化の融合によって、かなり高度な文化的成熟があったと思われる。その縄文人の文化は、その後の日本人に強く伝わっているものでは、ないような気がする。
稲作文化を持って日本列島にやってきた人々によって、縄文時代の採取狩猟文化から、徐々に弥生時代の農耕文化へと暮らしを変化させて行く。暮らし方が変わると言うことで、あの強烈で熱狂的な造形に見られる、強い前向きの文化から、わび、さびを感じるような、微妙な情緒的文化に変わって行く。
その変化には、絶え間なく流入する中国からの先進的文化の影響がある。しかし、その中国の高度な先進文化を受け入れながらも、日本列島という一定距離感がある地域性が、日本的というような閉じた文化を醸成して行くことにもなったのだろう。
日本人というひとくくりの民族は、縄文に始まったことは間違いがないのだろう。しかもその縄文文化は、日本列島に採取狩猟的に暮らす中で生まれたものなのだ。壊滅的な大噴火もあった。大津波もあった。冷涼期もあった。大震災もあった。食べるものがなくなる飢餓の時代もあった。
それでも日本列島という恵まれた地に4万年とどまり、生き抜いてきたことは確かだ。日本人の根本に日本の自然の中で生きる縄文文化を生み出した自然が変わらずあることは忘れる必要はない。もう一度日本人が自然に立ち返り暮らしを探るならば、あの力強い力を取り戻せるはずだ。
日本人は人口減少を恐れているが、全く恐れる必要はない。縄文人は25万人程度だと言われている。25万人が1万4000年も生き延びて、あれだけの文化を生み出すことが出来たのだ。日本の自然という戻るところがあることのありがたさを思い起こすべきだろう。
コンピュータ-革命の中に生きている。この革命は人間の暮らしを激変させることだろう。こういうときにこそ、縄文時代からこの地に暮らした、原始的生活を思い起こすべきではないだろうか。その中にコンピュータ-革命後の暮らしが見えてくるかもしれない。