国会とは議論の場のはず
カトレアの原種ルデマニアナが咲いた。石垣での蘭栽培は簡単なので楽しい。
国会議事堂という名前からして、国の課題を議論する場が国会である事は間違いが無い。ところが国会で行われているのはまともな議論ではない。審議をしたという形式を整えるための、通過儀礼と成っている。日本の国会議員の意識の低さには情けないばかりである。
政府がもし自分の主張が正しいと考えて、政策を提案するのであれば、堂々と本格的な議論をするべきだろう。議論を踏まえることでより正しい道が見えるはずだ。政府は正しいことを提案していない。何か思惑のある政策ばかりで、一部のものの利益を優先しているから議論を避けるのだろう。
大臣の方々の答弁というものは、上手にはぐらかすだけである。そのはぐらかし方は、官僚が手ほどきして、原稿を書いている。どのみち政府の主張が通るものとしている。審議時間が充分に消化したというだけのことだ。これがテレビで公開されているにもかかわらず、問題にならないのもおかしい。
野党議員の中には真剣な議論をしようとする人も居る。すると何ともちぐはぐなはぐらかしと時間稼ぎだけで、聞くに堪えないものになる。あのアベ氏のアベとも桜に関与していたら、議員を辞めるの居直り発言がその象徴だ。違法ではないにしても、倫理的に言えば議員の資格はない。日本の政治の情けなさが身に染みる。
例えば、オミクロン株が出たときに、岸田首相は外国人の入国禁止を即座に行った。それはコロナ対策として良い時間稼ぎになった。しかし、重要なことはその時間的猶予に何かしたのだろうか。あのときにこのブログにも書いたのだが、米軍から感染が広がることをどう抑えるかである。誰にも分かったことである。米軍に対応したのは一ヶ月以上経過してからだ。気がつかなかったとすれば、総理大臣の資格がない。
アメリカの状況を考えれば、日本の国会で、米軍問題に気付く人が居無かったはずはないのに、指摘をしなかったのだ。実情に沿って議論して欲しいのだ。日本政府はアメリカには何も言えない。この何も言えない状況は今も続いている。この問題が充分に国会で議論されたとは思えない。そのために、米軍基地からオミクロンが染み出てきた。
今の国会の状況では、議論のすべてが不用と言える。財政健全化など、大いに議論して貰わなければならない。財政破綻論とこのままの世界一の借金財政でかまわないという2つの考えがある。私にはその本質は未だ分からない。国会で分かるように議論してほしいものだ。
何故こういうことを国会で議論しないかが分からない。議論を行うと言うことは問題を明確にすると言うことだろう。明確にした上で、実際の政策をどちらかに選択する。その選択を良しとするか問題ありとするかによって選挙の判断材料にする。
現状では政府だけあれば沢山に見える。野党も与党もいらない。学術会議どころではない。全く国会そのものが無駄遣いだ。悲しいことだが、日本の政治の実態はそうなっている。肝心要の憲法に関する議論もまったくかみ合わない。
自衛隊が軍隊ではないなどと言うことは今更議論も何もなく、軍隊そのものである。だから敵基地攻撃のためのミサイルを準備するというような、どう考えても憲法違反の考えが出てきている。敵基地攻撃ミサイルについて十分な議論の結果決まったことではない。アメリカにやれと言われてやっているに過ぎない。そのことに関するまともな議論を、国会では聞くことが出来ない。
どうせ議論しても、無駄な議論になるというのが、政府の考えだろう。アメリカに言われたら、従うほか無いのだから。妥協点もない。野党をどうごまかして押し通せば良いかだけが、画策されている。こんな情けない政治があるだろうか。
こうなってしまったのは日本が自立した国ではなく、アメリカの防人の地であるからだろう。自分の責任で日本の安全保障を考えることが出来ない国である。食糧自給すら39%であり、一向に上昇が出来ない。アメリカから食料を売って貰わなければ、また買わなければ怒られる属国になっている。その結果借金は世界一である。
こんな状況でも国会で議論が出来ない。こんな状況だからこそ話し合う内容がない。こうした状況が長く続いてきた。それは国会だけでなく、どこの地方議会も同じではないだろうか。議員の数だけの結論が待っている。石垣市では3分の1を越える市民が住民投票を要求しても、議会は議論もせずに投票を否定した。
その上に、そうしたことを決めてあった住民条例の条文を取り除くことまでしてしまった。完全な民主主義の否定である。市議会での議論が否定されている。自衛隊基地のことを充分議論すること事態を避け続けている。充分話し合うと、石垣市民の安全が危機にさらされることが見えてくるからだ。
確かに日本とさらにアメリカの安全は高まるかもしれないが、敵基地攻撃ミサイル基地になる石垣島の市民は危険が増加する。この点を石垣市議会は充分に議論すべきだろう。議論して安全を保つためにはどうすれば良いか。市民が避難する為の施設はどうするのか。
市民が島から退去する方法はどのように確保するのか。そうした議論をすべきだ。まったくそうしたことが検討されていない。市民が基地へのミサイル攻撃で、コロされている間は本土では時間稼ぎが出来る。その間にアメリカが反撃してくれるかもしれない。これが政府の本音なのだ。
理解できないのは何故石垣市長が議論もしないで、この市民の不幸を市民の安全の為だと強弁して押し通しているかである。石垣市民の安全と自衛隊ミサイル基地との間には大きな矛盾がある。市民の安全は基地の存在で守られるという論理は大いに議論の余地があるだろう。
国会から地方議会まで議論というものの意味が軽視されている。どのみち噛み合わないし、結論は決まっているの。国の安全保障に対して、地域の住民は意見が言えないというのが、現実になっている。これは明らかな間違いである。これでは旧日本軍の沖縄で犯した差別的住民の扱いをまた繰り返していることになる。
また沖縄の住民が日本本土とアメリカの犠牲になることを、石垣市長が率先して進める愚を議論できない状況は余りに情けない。その見返りというのが、ゴルフ場の建設を初めとする、様々な理解しがたい古くさい観光開発である。石垣島の1番守らなければならない自然環境を破壊しようとしている。
先ずは民主主義を取り戻すことだ。中国の全人代はまるで議論がない。日本は議論の代わりに茶番が行われている。民主主義を大切にするようになれば、自然と政治に議論が起こるだろう。住民投票を避けるような議会は終わるべきだ。政治に議論を取り戻そう。