農業がSDGsでは軽視されていないか。
地球環境の永続的循環を考えれば、当然農業のことを考えなければならないはずである。一般的に日本では農業が大切なことは受け入れられている考え方ではないだろうか。ところが、SDGs は国連の考え方であるので、農業が軽視されているように思われる。国連では農業が環境を育むものという思想がないのではないだろうか。
理由は西欧での農業はプランテーション農業が考え方の基本になっていて、農業は環境を破壊する産業の一つという思想が強いからだろう。熱帯雨林を伐採して、焼き畑をして、環境を破壊しながら農業を行うと言うことの方が一般的な見方なのだだろう。
東洋4000年の永続農業はまさに循環型農業である。同じ場所で4000年連作できるのが稲作である。ところがプランテーション的農業ではそういう訳には行かない。収奪的農業になりやすい。そうした農業観が国連の考えた、SDGs にも反映しているのではないだろうか。
そのことは外国の話だから、仕方がないと思うのだが、本来永続農業の国である日本まで、国連の考え方に影響されてしまい。農業が日本のSDGs の中でも余り大きく考えられていない。SDGs が日本ではどこかから押しつけられた付け焼き刃だからだろう。
しかし、日本の里地里山の思想はまさに環境倫理学や食農倫理学では重要なものとして取り上げられいる暮らしの在り方だ。環境に調和して、環境を破壊せず手入れをして暮らしてゆく。お先祖様から地域の環境すべてを受け継ぎ、未来の子孫に環境そのものを残してゆく姿はSDGs に相応しいものある。
農業を行うことが環境を永続させて行くことが出来るという、日本が江戸時代に実践した奇跡とも言える農業の形を見直さなければならない。世界中が江戸時代の日本のように暮らせば、地球は崩壊しないことがはっきりしている。農業の観点から江戸時代の伝統農業を見直すべきだ。
現状としては、産業としての競争にさらされている農業は、主食生産を放棄してもかまわないと政府が考えるようになってしまった。情けない限りである。そのために日本の環境にとって最も重要であった稲作農業が、存亡の危機にさらされている。これはSDGs から考えても間違っている。
地球環境の循環と永続を考えたときに、様々な問題点が生じている。例えば地球温暖化など深刻な現状である。人間の暮らし方を変えなければならない。その時に、稲作農業の重要性が見えてくるはずだ。水田という、大きな水面を作り出すことが、環境を調整してくれる。
日本では相変わらず人口減少を悪ととらえているが、地球の永続を考えれば、人口増加こそ大問題である。人口が減ることは地球の永続性を保つためには今最も重要なことだ。人口増加が収奪的農業を広げる結果になり、環境破壊が続いている。
人間が永続的に暮らして行くためには食料を生産して食べなければならない。どのように食料を生産するのかと言うことが、人間が生きてゆく上で最も重要な課題になる。地球を破壊しながら食料生産を続けるのであれば、遠からず人類は滅びるだろう。
伝統農業は化石燃料を使わない。水牛の方が耕運機よりも経済性があると言うことで、今も利用している地域が東アジアにはある。これこそSDZSではないだろうか。水牛による稲作は自給農業であれば、実に合理性のあるものだ。水牛は大抵の草を食べてくれる。ススキでも食べてくれる。
周辺の荒れ地の草などを整備しながらエサが供給できる。スキを使い荒起こしをして、コロバシャを使い代掻きをする。水牛を使ってみると、意外に仕事がはかどる。水牛による農業は永続性のある農作業である事が分かる。こうしたことはやってみて分かった。
今度、のぼたん農園ではバイオガスを作ることになった。食品残渣や糞尿を利用して、バイオガスを発生させる。装置が完成すれば、崎枝のすべての家庭から、生ゴミが消える事も可能である。そこから出るバイオガスが、燃料として使える。そして残りが液肥として利用できる。これはすごいことだ。生ゴミを出さない環境を大切にする地域と言うことでまさにSDGs ではないだろうか。
ノボタン農園の農業体験が見える形で一歩深まることになる。農業のより良い形を模索することで、地球の永続性に貢献できることになる。食料の生産が、地球の環境維持に役立つものであることを示してゆくべきであろう。SDGs 農園のぼたん農園である。
主食をどのように生産すべきなのかが、食農倫理に於いて最も重要なことになる。稲作が可能な地域では主食をお米にすることこそ、地球環境の循環になる。農業の中で最も環境を豊かにするものが、伝統的稲作農業ではないだろうか。
石垣島というすべてが整っている理想的な環境の中で、島の生活の永続性を考えてみる。食糧の自給も島内で考える必要がある。主食であるお米を、島内で生産することの重要性を考えなければならない。他所から食料を運んでくることはフードマイレージから言っても合理性はない。
また、石垣島の文化は稲作と深く結びついている。稲作があってこそ石垣島の豊年祭は成立する。
稲作を唄う島唄は唄い継がれてゆく。石垣島の景観は田んぼがあるからその美しさの多様性を発揮している。そして石垣島の珊瑚礁は田んぼによってかろうじて守られている。
稲作を唄う島唄は唄い継がれてゆく。石垣島の景観は田んぼがあるからその美しさの多様性を発揮している。そして石垣島の珊瑚礁は田んぼによってかろうじて守られている。
石垣島が石垣島らしくある基本に稲作農業がある。田んぼを守ることが、石垣島の永続性に繋がる。このことは忘れてはならないことだろう。ところが安念な事に、石垣市のSDGs の考え方の中では余り重要視されては居ない。稲作が本島のようになくなったとしても仕方がないと考えているように見える。
それは石垣市だけの問題ではない。日本の農業政策の方向の間違いによって、産業としての稲作は年々より厳しい状況に向かっている。石垣市でも5年先にはかなり厳しい状況が生まれるだろう。専業農家が経営として稲作の継続しがたくなるだろう。
石垣島のSDGs を考える上では稲作農業を、市民一人一人が自給的に行う以外に無いのではないだろうか。もし市民が伝統農業によって稲作を行うことになれば、田んぼで自給の食糧が生産される。田んぼによって珊瑚礁が守られて、環境も保全される。
国連の考えるSDGs をむしろ日本型の循環型世界観によってより高度なものに変えてゆく必要があると言うことだろう。人間が豊かに暮らすという、原点をのぼたん農園で実現してゆきたいと思っている。ここにたどり着いたんだと今考えている。