あしがら農の会持続の理由

   



 あしがら農の会は緩やかな共同作業の農業グループとして旨く回っている。その理由はいくつかある。稲作農業は極めて危ういところに来ている。経済に振り回された無い、市民的な自給農業こそ、日本の安全保障になるのではないだろうか。何故あしがら農の会が成立しているかを書いてみたい。

 「お金」というメジャメントがない政治や非営利組織は何をベースに組織運営していくか、といえばカリスマ性あるリーダーや創設者の理念や信念、あるいは社会的要請に応えるということだと思います。しかし、組織のメンバーは時代の変化もあり、組織全体のベクトルを一方向に保つのは異様に難しいのです。ーーー世間の考え方。

 日本の社会がおかしく悪くなってきているので、世間の考え方が当然とされるようになっている。世の中全体を良くするなどと言うことはもう到底無理と考えるほか無い。それでも、自分の周りだけは何とか良いものにすることは出来る。食糧自給することは自らの自立になる。

 この周りだけでも何とか出来る事例が増えて行けば、もしかしたら社会の方角を変えられるようなことにならないとも限らない。大それたことだが、あしがら農の会にそうした希望を抱いて活動をしてきた。活動は27年続けたことになり、現在150人前後の仲間が居るとみて良いのだろう。

 この会の良さはカリスマの先生がいないことである。とかく人間は偉くなって、回りを指導したくなるものだ。私が始めたものであるが、私自身がどう指導者にならないかを注意して活動してきた。ここまで来たならば、私が身を引いた方が旨く進むだろうと考えたこともあり、小田原を離れた。

 あくまで全員が作る会である。入会金もない。会費は実費を人数割りして作られている。会は資産を持たない。脱会の抵抗感も全くない。あしがら農の会という場所でやりたいことのあるひとが、やりたいことのやれる場と言うことに過ぎない。

 世間の一般論に反して、他には無い人の集まりがどうして成立したのか。そして未来に続いて行きそうな理由を書いてみたい。農業の仲間を作りたいと考えたどこかの誰かに参考にして貰えるかもしれないので、私なりにうまくいっている理由を書いておきたい。

 何故あしがら農の会は旨く活動が続いているかの理由。

 1,自己負担をいとわない人が一割いるからである。田んぼグループが10人で形成されているとすれば、その中のひとりは自分の負担を乗り越えられる人がいるからである。ひとりのたいした人がいれば、何とか10人ぐらいの人はカバーできるようだ。

 そう言う人がひとりもいないグループは立ち消えになってしまった。負担感を感じる人は、公平とか平等とか言う話になる。ところがそうなると、世間的には合理的に見えるシステムになるのだが、いつの間にか継続が出来なくなる。それまで黙って支えてくれた人が馬鹿馬鹿しくなり離れるのだ。要するに黙って、支える人がいるかいないかである。

 2,誰もがやりたいことを出来るようになっているのかどうかである。ジャガイモが作りたいと思った人が、ジャガイモを作れるかどうかである。そのための畑という場。ジャガイモの栽培技術。農業機械。そして、一緒にやろうという仲間。こういうものがそろっているかどうかである。

 どれ一つ欠けても農業は成り立たない。やりたくてやったとしても収穫が出来なければ次は無い。農業は自然に左右される。極めて不安定である。例えば天候が読めなければ、作業は困難になる。いつ種を蒔くかを間違えれば、収穫が半減することもある。

 農業はすべてに臨機応変である。下準備が万全な上に、あらゆる変化に対応して行かなければならない。それには技術を熟知している人がいて、農業機械がそろっている。そしていざというときに集まれる人がいる。こうした条件が無ければ農業は続かない。

3,ひとりでやれる人が、一割居るかどうかである。150人のグループであれば、ひとりでも自給農業をやり抜ける人が、15人居なければならない。ひとりではやれない人がどれほど集まっても、上手くはゆかない。

 私は自給農業を5年かけて開墾から始めて達成した。そのことで、仲間10人ぐらいに広がった。仲間の中からひとりでやれる人がだんだんに増えて、今の形になった。又ひとりでやっている人に仲間にも成って貰った。やろうと思えばひとりでやれる力のある人が、仲間とやろうと思うかどうかである。

 ひとりで自給農業をやろうという人は、自立心が強く、他人と関わらない人が多い。それくらい根性が無ければ、ひとりの自給農業はできない。ひとりの自給は実は倍の負担がある。大勢の仲間でやれば、自分の自給も楽になる。まして仲間のために頑張れるという喜びが倍増する。

 このことをひとりでやれる人に分かって貰うことだ。ひとりでやれる人は農の会でやるのでは、実は負担が増加していると言うことにも成る。しかし、10人のひとりでやれない人の助けになる。そのことの重要性を理解できるのは知性であり、能力である。

 4,人間を信じられるかどうかが重要である。どこのどんな人でも受け入れる組織で無ければならない。志の高い人だけというようなものは継続できない。とんでもない人が参加していい。

 おかしな人を含めて自由な参加にしなければならない。それは人間を信じることである。どんな人も農業を行うと言うことにおいては、一緒だと言うことになる。一緒に労働をしているうちにわかり合えることもあるということ。心ある一割の人が、思惑のある妙な人を受け入れて、許せるかである。

 同類だけで出来て居れば楽ではあるが、継続はむしろ出来ない。様々であることにこそ力成る。農の会はひとりの人を助けてくれる組織である。

 5,自分から一切の宣伝をしない。宣伝をすると言うことの背景には何らかの思惑が存在する。利益がどこにも無い仕組みにしてあれば、あえて宣伝をする必要は無くなる。会員が増えると言うことはどちらかと言えば、心ある一割の人の負担が増えると言うことになる。

 仲間になる人は必ずどこかで出会うことになる。共鳴する。そして会を支える一割の大切な人が増える。そうなるとつまり10人の会員が自然に増えることになる。今そういう紆余曲折があり、15人のそうした頑張れる人に出会うことが出来たのだと思う。

 これは人生の幸福でもある。良い人に会えたと言うことほどの喜びは無い。しかし、そうした心ある人こそ、実に多様である。その多様さを受け入れる、農の会という器の大きさが良いのだろう。参考にどこまで成ったか分からない。ともかく人間の集まりほど難しいものはない。相談したいことがあれば、いつでも尋ねて下さい。

 - あしがら農の会