宮古島と石垣島を隔てる海
多良間島ではないかと思われる島。
八重山諸島と呼ばれている石垣島周辺の島々と宮古諸島の間には深い海がある。先史時代にここを渡ることにはとても困難で有ったと思われる。多良間島は中間にあり、石垣島から35キロ。宮古島までは67キロとある。石垣島の平久保岬からは多良間島の姿が見える。宮古島は見えないことだろう。
人は見えるところには行ってみようとするから、たぶん多良間島までは石垣から渡っていたはずだ。多良間島からも当然人は渡ってきていた。石垣島の平久保岬のそばには多良間田んぼと呼ばれている場所がある。多良間島から石垣島に舟に乗って出作りしていた田んぼがあるのだ。
出作りと行っても、通って作ると言うにはさすがに遠すぎる。たぶん2月ぐらいに渡ってきて、収穫できる7月まで暮らしているような生活ではないかと思われる。その場所は今牧場の草地になっているが、風の強そうな明るい場所である。台風が来れば、全滅したような厳しい場所である。
この場所は絞り水を集めたような田んぼだったと思われる。天水田だったのかもしれない。イネは品種によってはかなり水が少なくても大丈夫なものがある。うまく整備して水を集めれば、何とか水田になっていたかもしれない場所だった。
陸稲であっても良いというのであれば、多良間島で作っていたはずだから、わざわざ石垣島まで来ないだろう。古い時代には収穫の出来ない年があるのも普通のことだったのかもしれない、多良間田んぼ跡は石垣島の中では条件のいかにも厳しい場所である。
石垣まで渡ってきて、出作りをした人達のことを思うと、いかに水田というものが重要なことであったかが分かる。陸稲ではだめな理由が何かあったはずだ。多良間島に暮らしていてもどうして神事のお米だけには水田が必要だったと想像している。それは豊年祭があるから、お米は止められないと言われた、小浜島の田んぼの方に残っている思いと同じなのではなかろうか。
日本人にとって、お米は暮らしの祈りのようなものだ。お米を失うことは魂を失うような思いがあったに違いない。水田の作れる石垣島。水田の作れない宮古島。ここには何か大きな隔たりが有ったように思われる。宮古島にも神田だけは水田だったのかもしれない。宮古島は汲み上げれば水がないわけではない。
当然宮古島にもその昔にはお米を作ったという話はある。それはたぶん陸稲のことなのだろう。陸稲では何か神事としてはまずい理由があったのかもしれないと想像している。一つには水の中で出来るお米には神が宿るという思いかもしれない。
もう一つは長江中流域から伝わる稲作は水田稲作である。それ以前の陸稲の稲作は南方系の稲作であり、台湾から石垣島に渡ってきたのではないかと想像している。水田稲作と神事が同時に伝えられた可能性もある。
その陸稲と水田の稲とは何かが違う。もちろん生産量も倍くらいにはなる。管理も大分楽になる。水稲の方が味も良い。稲作を考えるとき水田というものから来る、集団管理のようなものが重要になるような気がする。そこから地域共同体が産まれ、祭りが生まれる。
日本の伝統芸能や祭りは水稲と結びついている。陸稲ではない。陸稲が最初に日本に来て、水稲が後からやってくる。その圧倒的な品質と生産性で、水稲は信仰にまで高められる。そして日本人というものが生まれる要因になって行く。
珊瑚礁の島である多良間島ではどうして水田が出来なかったのだ。田んぼが出来なければ、祭事が出来ない。どうして水田がやりたかった多良間島の人は石垣島まで通って、田んぼをやる他なかったのだ。水稲のお米は食べ物である以上に神に捧げるために必要だったのだ。
歴史的にも、石垣島との関係が深い多良間島ではあるが、今は宮古島からしか船はない。飛行機で石垣から行こうとしても、一度宮古島に行き乗り換えなければならない。どうして遠いい宮古島航路が残ったのだろう。宮古島の人が多く住んでいるのだろうか。残念なことだと思っていた。一度石垣島のそばにある島は全部行ってみたいと思っているのだ。
どうも豊年祭の時にだけ、船が一便往復するらしいという情報が出ていた。多良間島の豊年祭の祭事は国の無形文化財に指定されている。こうした、孤島であるほど、古い伝統が残されているし、芸能の暮らしとの繋がりも深いのだと思う。
多良間島は今や宮古島との関係の深い島になったのだが、古くはむしろ石垣島との関係が深かったのでは無いだろうか。宮古と多良間島の間は少し距離がある。そして海も深いようだ。この海を渡れるようになるには少し時間が掛かったのではないだろうか。
与那国島から、多良間島までは台湾から島伝いにひとは行ったり来たりしていた。そして、本島を中心に、宮古島まではひとかたまりで、むしろ奄美群島から島伝いに動いていたのではないかと想像している。
海の道。うみんちゅうは空の星を見ながら、ヒィリピンまでも行くと書いてあった。海の中に海流という高速道路がある。それを熟知していたうみんちゅうは海洋民族だ。国境など無く、自由に南の海を行き交っていた。