動禅の工夫 前半
動禅と言うものを考えている。動く禅である。考えていると言うより、禅が出来た時代にはあったはずだと考えている。ヨガに近いものではあるが、ヨガではなく動く禅である。あくまで仏教の一つの宗派の修行法としての動禅である。
仏法の修行の方法として動禅があるのではないかと考えている。曹洞宗の禅は座禅がすべてとされているが、一五〇〇年前菩提達磨によって中国に伝えられたときには、動禅や立禅も有ったと思わようになった。
道元禅師がおよそ750年前に中国に渡り、日本に禅の考え方を持ち帰り伝えることになる。その時代にはまだ中国では、動禅や立禅も残っていたのではないか。その中から道元禅師は座禅を修行の中心のものとして伝えたのだと思う。ただ、立禅や動禅もなかったはずはない。道元の厳しい性格からすると、面壁となる座禅の他には関心が行かなかった。
禅の考え方が、中国に伝わり道元が学ぶまでの長い時間は、禅が日本で現代にまで伝ったわってきた年限とほぼ同じくである。変貌した部分や日本的に収斂したものもあるだろう、熟成して来たものもあるのだとおもう。
インドのヨガを含んだ菩提達磨の禅の仏教が中国に伝わり、老荘的な中国の禅仏教に変貌した。そして中国では仏教としては失われて行く頃になって、法を受け継いだ日本での禅は深まって行く。インド、中国以上に一つの哲学として極められてきた。不思議に日本と言う国は中国から受け継いだ文化を、より高めてる独自性がある。
日本に伝わった道元の禅はまた、日本的な自然と一体化するような、アニミズム的な原始宗教を取り込んで変貌しただのではないだろうか。修験道の修行と禅の修行がどこか通い合うところが生まれる。
そうした日本での変貌の中で、立禅や動禅は完全に失われたような気がする。ひたすら自然の物になりきるような、座禅修行が中心となる必然が有ったように思う。日本人の宗教は教義を学び、それを行うと言うよりは、自然と一体化するような、原始的な感覚を残したままの自然宗教と呼ぶような宗教を持っていると言えるだろう。
立禅や動禅では道元禅師の厳格な哲学的な精神には合わなかったのだと思う。動禅は日本の伝統的な宗教観とも合わなかったのだろう。言葉にしてみれば、ヨガの瞑想が心地よい世界を想像させるが、座禅の無念無想は絶対性を求める厳しさである。
750年前の中国では、まだ菩提達磨から伝えられた、動禅も立禅も生きて行われて居たのではないかと想像している。達磨大師が伝えたものの一つに、八段錦も挙げられている。八段錦は仏教が失われ、座禅と言う修行法が失われた今でも、中国では健康体操として、八段錦は盛んに行われている。
1500年前の中国に伝わった時代にはヨガと禅が渾然としていたのではないだろうか。インド的な物であるヨガが八段錦にすこしづつ形を変えていったと考えても不自然ではないのではないか。
ただ、現代の座禅から、考えると動禅というものはとんでもないことである。否定されるべきものと言ってもいいのだろう。動禅から入ることしか出来ない私のような者がいると思う。座禅修行の一切を拒絶するような厳しいものより、八段錦を通して禅の心境に近づくこともあるのではないかと考えるようになった。
健康法であるとか、呼吸法であると言うような実利的なものを通して、禅に近づいて行く方法を工夫することも必要だと思うようになった。禅宗では一番嫌うところではあるが、僧侶の修行法ではなく、生活人としての工夫としてである。
スワイショウと八段錦をしていると、何か禅に通ずる世界があるように思えてきたのだ。実際に肉体の強化を通じて心を清め、整え、高める事はできるのかもしれない。心身を安定させて、肉体の能力を完全に発揮できるように修行する。
静かな修行が座禅、動きの中で行うのが動禅である。八段錦には体操という意味は含めず、あくまで呼吸法と考えたい。呼吸を整えるという事ができるようになることで、身体を整え、心の安定が生まれる。
目標は生活のすべてを動禅とすることになる。正しい呼吸と姿勢で掃除をすることに意識を集中したら、それがそのまま精神修行法や、禅定行法にもなるのである。動禅では、肉体的訓練はそのまま精神的安定に結びついている。これは座禅の考え方と少しも変わらないものである。
動禅においてはまずスワイショウから入る。スワイショウは腰骨の上にまっすぐに立つ背骨。背骨を柱として腰から首までを揺さぶり振り続けることで、柔らかくして行く。背骨を通してすべての神経が広がっている。背骨周辺を柔らかく整えることで、脳の中の神経まで緩んで行く。
例えば、今日は動禅をやるのはおっくうだなという日もあることだろう。ところがスワイショウを始めると、意識が明るく前向きになり、意欲が湧いてくる。能の中のつまりが取れたような感触である。だからすっきりするだけなら、スワイショウだけでもかまわないくらいだ。
スワイショウを長く続けると瞑想に入る。瞑想と言うより酩酊かもしれない。脳への刺激が繰り返されることで、脳が思考を止めるという感じか。ぐるぐる回る宗教メヴレヴィー教団はイスラム神秘主義の教団の一つである。ぐるぐる回り続けて、宇宙と一体化するという。脳の機能としての目が回ることを利用しているのだろう。
スワイショウにもそれに近いものがあるので、まずスワイショウから動禅に入る事は良い。まず身体を揺すりながら、柔らかくしてゆっくり10回ほど降り始める。身体が動き始めてきたら、思い切って左右に振り始める。
あくまで骨盤の上の背骨の周りを柔らかくする。股関節をひねるのであって、背骨をねじるのは良いくない。背骨を回すようにねじると、背骨を痛める上に、背骨の周りの筋肉が固くなる。筋肉で身体をひねると言うより、腕の振りで背骨の周りあたりが、揺さぶられる感触である。
腰の植えにまっすぐに乗っている背骨をほぐすという気持ちで股関節で身体を回す。難しい動きなので、繰り返して身につけるほか無い。身についてくると、動禅という感覚が感じられるはずだ。
次に八段錦である。八段の八つの形はネットで見て貰えばいいのだが、あくまで呼吸強化と考えなければならない。一つの動きを一呼吸と捉える。呼吸をできるだけ長く行う。呼吸は鼻の穴が空いていて、自然に空気が出入りすると言うことである。意識して空気を吸うとか、吐くというようなことは行わない。
現代の中国の八段錦は全く動禅と言うより、舞踊というような型に変貌している。中国文化の劣化を感じるところだ。これは絵においても明らかなことだ。呼吸を整えることに四職を集中させて行くことで、無我の境地に至ると言うことを考えなければならない。
手を下げるときには息を吐く。鼻の穴が開いていて、空気が自然に抜けている。上に上げている手が下に降りるまでが一呼吸である。初心のうちは短いものでいい。繰り返す間により長いものになって行く。長く一呼吸が行われて、下に下ろした最後の所ではおへそのあたりの丹田から息を吐き出すつもりで、腹を膨らませる。
腕を上げて空気を吸うときには、一呼吸で徐々に腕を上げ、最後には指揮者のように腕を大きく開き胸を精一杯に開く。このときもあくまで空気を吸うのではなく胸を膨らませて、鼻は空気のは入り口と言うことになる。
目は半眼である。目は開いているが、見ていない状態である。耳も同様に聞こえているが、聞いていない。鼻は匂いを嗅いでいるが、意識はしない。5感すべてが研ぎ澄まされて行くが、その意識はない。それが出来るまでは目は閉じたまま行う。
ーーー長くなったので、続きは改めて別項で。