動禅の工夫 後半
一本の草も間違って線を引いていない。そう思ってみてみると、確かに間違いが無いのだが、間違わないというような意志もない。意志がないから間違えないのだな。草は自然の摂理に従い反応をしているだけだ。この姿から学ぶものはある。
動禅の工夫は具体的には毎朝四五分ほど行う、スワイショウに始まる体操のことである。只管打坐というような事のできない人間である自分を、ダメだと認めた上で、次善の策として毎朝行う健康体操の考え方を動禅と考えてみることである。
動禅は座禅よりも劣るものかもしれないが、劣った私には勝るものであるとも言える。自分の至らなさを認めた上で、その自分が最善に日々を生きるためには動禅で行きたいと思うようになった。どうせ毎朝健康体操をするのであれば、動禅と考えて工夫をして行くのも楽しいではないか。
風景を見ながら絵を描いているときは考えると言うことは出来ない。何をどうすればいいのかは頭で思考してもどうにもならない。頭は反応だけになっている。構図がおかしいとか、色がおかしいというようなことをその場で考えることが出来ない。考えることが出来ないだけでなく、考えてもろくな事にならないと言う体験を重ねた結果である。
絵を描くときは、只管打画である。ほとんど反応で描く。何でこんなことをやったのだろうと思うばかりである。どんな絵を描こうと思って始める事もまず無い。ただ描くことに委ねようとするばかりだ。意識的にそうしたというより、そうなった。そうならない限り自分の絵にならないからだ。
風景に向かう前から、ここはこのように描く。そういうつもりがいくらかあったとしても始めてみれば、ただ反応して描いていて、思わぬ方角に進んで行く。絵を描く上では自分の意志のようなものはたいしたものではない。
自分の絵にならないとすれば、絵を描いている意味が無いと考えるから、自分の無意識のようなものに委ねようと思う。それが私絵画である。描くという行為に重きを置く考え方だ。原発事故後の絵を描けなくなった後、徐々にそういう描き方に変わってきたような気がする。そろそろ10年である。
それを明確に意識するようになったのは、100歳の絵画を考えるようになってからだ。終わりを決めて、それを目指して日々絵を描くと言うことになってからだ。見るままに描くところに立ち戻り、再出発をして100歳絵画を生きている。
その描いている気持ちは座禅をしているときと近いものだと思うことがある。今目の前に絵が並んでいるのだが、どうやって描いたのかというようなことはほとんど分からない。こうなったと言うだけである。もう一度やってみようなどとも思わない。一期一会である。
絵を描くことが只管打画だなと気付くと。毎朝の体操も、夜が明けることに合わせてやっているのだから、体操は 暁天動禅と思えばいい。夜やる掃除が夜座である。そして昼間の絵を描くことが勤行である。そのつもりで生活をすれば、何か無駄のない生活をしているような気がして気分がいいではないか。
そんな立派なことを言えば、大間違いである。だらだらいい加減にやっている。頑張っていると言うよりはぐうたらに、好き勝手に生きているのでそこは誤解無いように。ダメな奴なのだ。
そこで、朝の体操を動禅として工夫し、心構えを整える。特に八段錦が行いやすい。体操をする間の呼吸をお腹で行う。腹式呼吸である。お腹で息を吐く。お腹で息を吸う。そのようにお腹を呼吸に合わせて動かすように意識をする。一呼吸をできるだけ長く行う。
呼吸は鼻の穴が開いていて空気が移動していると言うぐらいにする。一呼吸の時間がかかるほど良い。運動によって、呼吸の長さは変わってくるが、呼吸は数えながら行うといい。一呼吸10ぐらいから初める。10を2回繰り返せるようになる。
しだいに、スワイショウや太極拳も次第に呼吸を取り入れて行くことが出来る。膝蹴り体操やV字腹筋ですら、呼吸法を考えながら行うことが出来る。先ずは欲張らずに、八段錦の呼吸を完成させることにしようと思っている。
毎日動禅を行い何かが変わるかと言えば、特段にはない。ただ、一日を安心して過ごすことが前よりはいくらかできるようになった。只管打画が迷いが減った。余計なことを考えずに絵に向かい合える時間が長くなったかもしれない。
絵が進むかもしれないような気持ちもしてきている。その効果が現われるのはもう少し先のことかもしれないが、絵を描くことに希望が出てきた。絵を描きに行きたくなる気持ちが強まった。
前見えなかったことが見えるようになった。妄想かもしれないが、前には描こうとは思わなかった場所にとても惹きつけられる。ただの草原を絵にしたくなるようになった。それが絵になるのかどうかはまだ分からないが、何か描きたいものに変化が起きてきているかもしれない。
描けるよと呼びかけてくれる場所に従おうと思っている。半眼で風景を見る。半眼で見ている絵が描けるかもしれない。それには動禅において、さらに工夫を重ね、見ているのに見えない。見えているのに見ていない。そういう状態を深くして行きたい。
絵を描いている上での、見ているのに見えないとは、刮目してみると言うことだろう。初めて見たように見る。海である。海水である。光を反射している。そういうこと頭の理解という前提を持たないで、ただ見ると言うことかと思っている。
海らしくとか、海の説明とか、そういうものではない、今目に映る広がりで起きている現象に、自分という人間が何の前提もなく向かい合ってみると言うことだ。そこで自分は何を描くのかと言うことを見つめたいと思う。
動禅と言う気持ちで体操をするようになり、少し気持ちの整理が出来てきたかもしれない。一日という巡りにまとまりが出てきた。夜の掃除も絵を描くことと同じ気持ちで出来るようになった。
動禅はアトリエでやるわけだが、アトリエがすこしづつ禅堂のようになってきた。床を磨くのも夜の動禅のつもりでやっているからのような気がする。こうなると禅堂らしく少し模様替えもしたくなった。
書き忘れたことがあった。太極拳が終わったところで立禅をしている。両足を肩幅に広げて、まっすぐに立つ。手はおへその前で、右手を下にして、左手を乗せて、両親指を触れあうように向かい合わした印を取る。
立禅の長さは頭が静かな間は洗い流すつもりで続ける。どこかで乱れたところで終わりにする。10呼吸から20呼吸ぐらいである。