総理大臣の説明責任は一番重いはずだ。
安倍総理大臣は相次ぐ閣僚の辞任の際に、繰り返し任命責任は私にある。責任を全うするため政策実現にまい進すると発言してきた。そして辞任した本人が説明責任を果たすだろうと発言していた。ところが、止めた大臣は説明責任どころか雲隠れしたままだ。しばらくすれば忘れてくれると考えているのだろう。
今度は総理大臣自身が桜の会で疑念が生じた。安倍氏自身これで3回目の疑惑である。不明瞭な説明のみで、十分な説明責任を果たしているとは思えない。国会は政策議論どころか、安倍氏の疑惑追及の場になっている。その原因を野党の繰り返す追及の為としている。
明らかにそれはすり替えで、繰り返される疑惑に対して、明確に答えないところに原因はある。桜の会の名簿など、廃棄すること自体が問題である。毎年廃棄する理由自体が何か胡散臭いところを感じざる得ない。犯罪者を総理大臣が招待していたかもしれない。こういう疑惑を曖昧なままで良いとは思えない。
説明するという事は分事実関係を話すことだ。桜の会を利用した安倍後援会1000名について何も説明していない。総理大臣がいつまでも誤魔化しているから、国会が疑惑追及の場になる。これは犯罪ではないのだと思う。総理大臣としてみっともないことをして申し訳ないかったと謝るべきことなのだ。その潔さがまるでない。
明確に事実関係を説明する。それが総理大臣の思い説明責任である。説明に対して、あるいは説明を果たさないことに対して、選挙民がどう判断するかである。この点の機能が失われている。しぶとく誤魔化していればほとぼりが冷めるという事だろう。ひどい事になったものだ。
桜の会のことは、こんなうす汚い総理大臣はいらないという事だ。国家の品格にかかわる。余りにみっともない自己本位なやり方だろう。総理大臣だから、宴会の料金をホテルに格安でやらせる。確かにそうだろう、そういうものだとは思う。ホテル側の忖度である。
しかし、それをやっちゃーおしめぇよ。安倍氏の周りにはこういう薄汚れた驕りが渦巻いている。これが情けなく嫌なのだ。総理大臣であればこそ、清廉潔白な人であって貰いたい。自分の権力をずる賢く利用するような人間は許しがたい。それどころか、そのおこぼれにあやかりたいとうごめく自民党に吸い寄せられる議員たちの見苦しさ。
世間様のほうも、マスコミのほうも、どうも権力に甘くなっている。甘く媚びていれば、何かにありつけるかとでも考えているかのようだ。たくさんの政治的課題があるのに、いつまでも桜を見る会だけではないだろうなどと言いだしている。こうやってまた、うやむやにしようというのだ。いや、ほぼうやむやになった。この姿を見ると、つくづく日本はもう駄目なのかもしれないと思う。日本の桜が散ったのかも。
ごまかして済ませる政治状況では考えようもない。こうさせているのは有権者である。アベ盟友の大学認可。アキエ夫人の名誉校長。ジャパンライフ社との関係はおかしくないのか。まったく有権者は許している。こんなことがあいまいなまま過ぎてゆく、薄汚い政治状況になった。
現実社会ではそんなことはみんなやっているのだ。そう言っている議員もいる。しかし、1000人というのは度が過ぎていないか。まあ許せる範囲を安倍氏は超えたのだ。ホテルの前夜祭は度が過ぎていないか。調子に乗りすぎだろう。こういうことを許したら、終わりなのだと思う。政治の倫理という物が、成立しない。どうでもいいというならわかる。いちゃもんをつけるなという事ならわかる。
しかし安倍氏は後援会優遇はやっていないと言う。名簿は廃棄したという。とんでもない。破棄するように決めてあるらしい。これがおかしいだろう。どこの会社でもこういうイベント名簿は財産である。国のやることは何か初めから、胡散臭いので名簿は残せないという事なのだろうか。汚い世界になってしまった。
昔は紙だから要らないものは捨てたかもしれない。しかし、今はデーターに残せば場所はとらない。すべてを残すべきだ。そして、国会で必要な決議があれば、どれだけ前のことでも調べられるようにすべきだ。
腐った権力者ほど、世の中を悪くすることはない。若いあたまの動きの良い人は偉くなってあべ氏のようになりたいと思うだろう。何をやっても許されるのだ。偉い人は忖度されていいと考えているのだろう。こういう社会が最低なのだ。権力者ほど謙虚に、若い人の見本になってもらいたいのだ。日本の社会ではそういう節度と品格が求められたのではないか。
安倍氏が自分の選挙で負けるようなことがある訳がない。それなのに、後援会の人を優遇して、桜の会に1000人も招待する。これは選挙対策ではない。人間として恥ずべき驕りのサービス事業だ。自己顕示欲というか自慢だ。上に立つものは襟を正す。昭恵夫人まで推薦枠がある。こういう構造は嫌らしいだろう。そういう日本を私は無くしたい。
総理大臣がそのくらいのことをして何が悪いという声がある。そうなんだと思う。日本はそんな国になってしまったのだ。戦後そういうお偉いさんはいなくなったと思った。氏素性で忖度されるような、身分制度は無くなったと思った。ところが、アベ政権になり、実に顕著にそういう嫌な社会が戻ってきた。
その一例が桜を見る会に現れたに過ぎない。確かに忖度は違法でなない。ホテルが総理大臣を忖度して、次の公の行事で利用してもらう。言わずが花の持ちつ持たれつ関係。権力者ほど有利な社会が構築されたのだ。秘書官がホテルに、後援会の宴会なのでその点ご配慮お願いしますで、格安になったのだ。それは違法ではないが、後援会の宴会だから、通常価格でお願いしますが、本来の総理大臣の姿であってほしいだろう。
総理大臣ご夫妻と並んで写真を撮り、会社に掲げる。その写真が何らかの効果を上げる。ジャパンライフ社は安倍氏の名前を利用して営業をしていた。悪徳会社は安倍氏からの招待状を悪用したのだ。桜の会の招待状をありがたがる世の中が気持ち悪い。
しかし多くの国民がこの事態を拒否しない。この程度のことで騒ぐ方がおかしいという空気が立ち込めている。何故なのだ。ここが不思議なのだが、自分もいいように扱ってもらいたいという事だろうか。こういうピラミット構造が出来上がったのだろうか。多分私のような態度を僻みと受け取るのだろう。
階級社会というものは実は下層階級が望んでそうなるのかもしれない。安倍氏ご夫妻と一緒に写真を撮ってもらえる自分を上の階級のように意識させられるのだろうか。国民に説明をしない自民党に投票することが、どうしても私には理解できない。
書き出したら怒りが湧いてきて、同じことを繰り返している。申し訳ない。総理大臣の説明責任は一番重いはずだ。