名古屋で木村忠太展
名古屋で水彩人展があり出かけた。かなり良い展覧会が開けたと思った。自分の絵の絵を見て大いに反省が出来た。金沢の頃の友人と5人も会う事が出来た。とても懐かしかった。みんな偉くなってそして定年になり、まるで私とは違う立派な人生を送っているようだ。
それでも私の絵を見に来てくれるのだから、絵を描いてきてよかっなぁーとも思った。もう友達ともそう何度も会えない。一期一会である。そんなつもりで話をした。暮れになると黒いはがきがたまる。
今日もナンシー時代の友人の谷口さんの黒枠のはがきが来た。死んじゃったんだなぁーと。もう一度会いたかった。絵の話もあったんだけど。彼は仕事が忙しそうで、案内状などは出していたのだが、会えなかった。
谷口さんは日本でマチスの彫刻展を企画した人だ。良い展覧会だった。マチスの絵よりマチスらしかった。マチス美術館から借りてきたものだ。フランスにいたころマチスの生まれ故郷の小さな町にある美術館に彫刻を見に行った。その話を谷口さんにしたことがあったので、開催のヒントになったのかもしれない。
名古屋で木村忠太展を見に行った。三重美術館にある、忠太の代表作と言っていいものが、3点出ていた。前見た時より、忠太のことが分かるようになっていた。自分の絵を見る目が成長したとも思えないが、同じ70歳になって少し心境が分かったのか。
木村忠太は若いころフランスに行き、そのままフランスで死んだ画家だ。もちろん私のフランスにいたころも同じパリにいた。忠太のことは知ってはいたが、会えるような機会もなかった。
日本に戻ると、忠太が若い人の中で注目の的になった。国際形象展に出ていたのだと思う。この展覧会は抽象全盛期の中での、具象の巻き返しの様な展覧会で、半具象と呼ばれるような絵が多かった。たぶん画商が中心にやっていたのだろう。
のちに教わるようになる春日部洋先生もここに出していた。この展覧会を一番の楽しみにしていた。この展覧会の絵に影響されたという事はあると思う。あの頃はこう言う大きな展覧会が大きなデパートで開催され、人も集まっていた。隔世の感がある。
銀座の日動画廊で個展が良く開催されていた。学生の頃初めて見て驚いた。青山の裏の方にある画廊でも開催されていた。もう名前も忘れた。たからし画廊と言ったか。フランスで制作する木村忠太の様子をいろいろ話してくれた。
日本で開催された展覧会は多分全部見ているだろう。追っかけである。それくらい興味があった。木村忠太の絵は終わっていないので、次の絵が見たくなるのだ。この人の次に描く絵はどんな絵なのだろうといつも期待が残った。
この時期待したものは分からないうちに木村忠太は死んでしまった。その次に見たいと思っていた期待感。あれが同時代性というものなのかもしれない。生きている絵画だった。すべてが終わった。終わってそれをどう見るかがいまだにわからないできた。
木村忠太の絵は輝いていた。精神の印象派だと言っていた。印象派は光に反応したが、西欧人の光りは科学分析的なものだ。東洋の光りは精神だ。その精神の光輝く姿を絵にするのだ。ということらしい。
分かったような分からないような、ことだったが。私がフランスで学んだことと近いと思った。私は西洋の印象派の結論をマチスだと思っていた。色というものを自分の絵画空間に構成し直す。その理路整然とした、光の構成が西洋の知的光だと思った。
一方にボナールの光りの輝きもあった。心の震えるような親密な光の美しさ。光というものがこれほど愛らしく、心に染みてくるものなのかと、ボナールの絵から教えられた。これならやれるような気持がした。
マチス、ボナールの光りは、モネの光りの見方の結論のように感じた。モネは見るという事のままに、光に反応した。絵画における見えるままの意味を示した。知的に光を色に置き換えるマチス。暮らしの目線で光を親密化したボナール。
そしてその先の仕事が、日本人にはあると思えた。その一つの事例が木村忠太ではないかと思っていた。インターナショナルであることは、徹底してナショナルである。その人の土台のようなものが、絵を作り出す。それが精神の印象派と言われた意味ではないか。
今回久しぶりに木村忠太の絵を見て思ったことは、黒い線である。簡単に言えば誤解があるが、漫画の輪郭線である。線における説明で絵が作られてゆく。線は色ではない。光でもない。書のようなものだ。
この線で絵を作り上げる方法は初期から最後まで変わらなかった。人であることを説明するには人という輪郭線で記号化する。自転車であったり、車であったりする。それは意味である。色面と線による意味づけを組み合わせて絵をつくる。
当時、たからしさんの説明で、試行錯誤のすごさばかり刷り込まれたが、実はかなりあっさり描いている。それほどの試行錯誤はない。50年経った絵の具を見ると良く分かる。キャンバスの上にせいぜい3層までである。絵の具の保存が極めて良い。これもフランス的なメチエ。
デッサンを徹底してやる。それは鉛筆画を見ればわかる。構成とか、光はえんぴつデッサンで結論が出されている。その結論が色彩に的確に置き換えられる。ここがすごいところだ。今になって風景をデッサンするという意味を教えられた。
松濤美術館だったと思うのだが、死んだ後の集大成の様な木村忠太展を見てがっかりした。次の絵でやろうとしていることの結論があると思っていた。ところが結論を出さずに死んでしまったと思った。死ねばそこにある絵が結論だ。そう思うと物足りなかった。
ところが今回久しぶりに見て、それは私の浅はかなところだ痛感した。見るべきことを見ていなかった。木村忠太の主張する精神を、高僧のような精神だと思ってしまっていた。つまり中川一政氏や須田剋太氏の精神のようなものだと。
木村忠太の精神はごく普通の人の精神であった。崇高なものを求めているわけではない。フランスに渡り絵を描き続けた人の姿である。自分の等身大の精神である。そういう意味で日本の伝統的な絵画とも異なる。つい精神の印象派などという事で、間違ってみていた。
どちらかと言えば、マチスやボナールの見方に近い。ただ線による意味づけが、日本の伝統から生み出されたのだと思う。線による説明が構成と入り混じる。書のように線で意味を表す伝統。これは西欧絵画だけの人には、上手く絵画として取り込みにくいのではないか。
当時若い人の間では、木村忠太風ははやった。色面の上に線をひいて絵を作る人も多かった。私にはこれが出来なかった。この線の不自然さが耐えかねた。それは今でも変わらない。木村忠太のような、安易な線は描くことが難しい。
こぶしのない線。表現しない線。勢いや方向のない線。と言ってしゃくし定規ではない線。これは凄いデッサンの訓練で生まれた線なのだろう。努力して努力して、何でもない線をひけるようになる。今頃分かった。
上手くならない訓練の積み重ね。その意味では熊谷守一氏に近いのかもしれない。どうやって自分というものを消して、自分を通さないで、そのものが持つものを画面に再現するか。見えているものを見えているままに表すという事の意味。