表現の自由と天皇制

   



 表現の不自由展のごたごたの中で、日本人にとって天皇とは何であるのか。あるいはどうあれば良いのかという事が浮かび上がった気がする。このことは、混乱があったからとはいえ、表現の不自由展が役割を果たしたという事ともいえる。

 結論をまず書いて置けば、憲法に定められた象徴天皇制は、直系男子がいなくなった時に終わりにすればいいと思う。天皇家が無くなるというのではなく、特別な一族として江戸時代のようなの天皇家は継続してゆけばいい。

 天皇の肖像写真が燃やされることで、傷つく人がいる。戦前には肖像写真を御真影と名付け、奉る建物が学校に存在した。通る時には拝礼をするようなことになっていたのだ。天皇の写真にはそうした歴史的意味もある。これを燃やすという意味と考える必要がある。

 傷つくのはその人の中にある価値観なのだろう。家族の歴史という事が関係することもある。明治帝国日本は天皇を政治に利用した国家である。それは、天皇の意味が日本帝国の象徴に変えられたことでもあった。写真を信仰の対象にするほど、天皇を崇める存在に祭り上げた明治政府。

 江戸時代の日本人にとっては、天皇が宗教的な存在であった。特に稲作と結びついた信仰的存在である。それは天皇家が稲作技術をもたらしたことで、日本国という国づくりに大きく影響したことがある。その存在を権力的なものであるとした歴史は、明治政府の捏造の歴史にある。

 明治政府が革命を起こし、その権威を天皇とう存在に集め自己正当化を行った。その為に天皇はそれまでの天皇さんと庶民が呼べるような存在から、写真までは拝礼しなければならないものの変わった。これは革命政権の人為的な操作である。

 天皇を中国の皇帝や西欧の歴史にある王室のような武力的権力と考えない方が良い。日本の神社の基であり、五穀豊穣を祈願するものである。伊勢神宮と修学院離宮に行くと天皇の意味を感じることが出来る。

 明治政府というものは、富国強兵。脱亜入欧。日本語を捨てて英語を国語にした方が合理的だとするような国だ。徳川幕府の江戸時代をいかに問題のある悪い時代であったかを徹底的に教育した。70年前は盛んに家康はタヌキおやじだと何故か言われていた。それが日本帝国主義の洗脳である。

 そして、天皇に関しても神格化するために過去の歴史まで捏造したと言っても良い。それが教育において、徹底されたために日本人は天皇が軍神であるかのような、とんでもない誤解を刷り込まれてしまった。天皇陛下万歳と言って死んでゆくという姿である。

 こうした天皇の歴史的意味を写真を燃やすことで表現した作家は十分認識していただろうか。たぶん、明治政府の虚像の天皇を燃やしたのだろう。傷つく人が、実はゆがんだ教育の被害者なのだ。今も存在する天皇主義の人たちなどその結果のような人たちと考えた方がいい。

 日本が傷つけられるという事が、自分の心が傷つくことである。だから傷つく人がいることが前提の表現において、その表現者が傷つく側に対して思いが至らない場合、何か表現の意味に一方的な見方があるという事になる。

 その結果、人に伝わるものが単純化してしまい、芸術表現とは言えない浅いものになる。もし、本来の天皇を、江戸時代の天皇の姿まで踏まえていれば、もう少し違う表現になるのではないか。

 誰の肖像であれ、燃やすことで作品の表現とするというのは、まともな方法ではない。もしこれが天皇以外であれば、明らかに人権侵害である。こういう表現は国旗を燃やすとか、大統領の写真を燃やすとか、政治的主張として行われることが普通であり、芸術的表現としては浅薄なものになる。

 写真を燃やすような作品で芸術として扱われたものは過去にはない。たぶんこれからもないだろう。芸術として残るものは総合的なものであって、一方的な角度の見方では、人間の心には伝わらないからだろう。

 写真を燃やすという批判は明確な意味を持つが、何故燃やさなければならない存在であるのか。ここが明確にはならなければ、半分の表現である。一方的な全否定に過ぎない。芸術の表現は自分とのかかわりを含め、深い人間存在にかかわる意味を持たなければならない。批判の意味は伝わるが、芸術として見る人を変えるような力は持ちえない。

 これは私の芸術観であり。そうでないと考える人がいることは理解できる。それにしても傷つく人がいるだろう表現の場合、その表現の場は配慮が必要である。知らないで、津波の映像に触れて心を病んでしまう人がいる可能性はある。

 子供が津波で流されて、行方知れずのままの人であれば、当然心に傷がついているだろう。その傷をさらにえぐるようなことになりかねない。それは、日本の為と信じて天皇万歳と叫びながら、特攻をした兄弟を持つ人であれば、天皇を冒涜するような表現が、その傷をえぐるくことになる可能性は高い。

 表現者がただ告発するための表現をすることも自由である。またそれが必要なことである場合もある。天皇が象徴である以上天皇を批判する表現はありうる。天皇が普通の人間であれば、それは許されないことだが、天皇が象徴という、負の意味も含めた立場であれば、批判の対象になることは、止む得ない事になる。

 天皇が象徴であるという意味は、日本人たる自分が何ものであるかを意味している。それは日本という国家と、自分という個人との関係の問題でもある。天皇を問題にするという事は、内なる日本を問う事でもある。この部分を十分国民的議論にしなければならない。

 首里城が燃える映像を見て、茫然とした。私というものの心は傷ついた。あの映像を見たくないと思った。東日本の津波の映像を見たくない。日本が崩壊してゆくようで、魂が消え入るような思いがする。原発の崩壊した姿も見たくない。すぐチャンネルを変える。

 芸術が前向きなものだけでないのは当然である。人間の闇の、暗黒部分を掘り下げる芸術というものは存在する。歴史の中にもそういう芸術作品は存在し、見たくもないようなものが作品として残っている。しかし、そうした作品であっても、人間の奥底に触れているから、時代の選抜を潜り抜けるのだろう。

 日本の象徴たる天皇の批判を公の展示として行っていいのかである。明確に展示しなければならない。それがたった一人の意見であれ、展示しなければならない。日本を傷つける表現であっても公の美術館であるからこそ、展示を妨げてはならない。それが、公の美術館の役割なのだ。芸術的ではないと美術館が判断するとしても、展示しなければならないのだ。

 名古屋市長は公の美術館で展示されると、その考えは公の意見とみなされると公言している。明らかに芸術に対する理解力不足なのだろう。理解力不足どころか知性の欠落を感じる。芸術はそんなに単純なものではない。公の美術館が公の思想を表現する場になれば、それはまさにナチス美術プロパガンダと同じ事になる。

 人間が多様な価値観を示す場が美術館である。そこでは価値が確定していない、疑問や反発を招く作品も展示すべきなのだ。そうして、未来に対して、今は価値として見ることができない何ものかを、芸術作品として予知し、切り開くことは芸術の一つの役割である。

 近代絵画が切り開いた人間の精神の自由の表現は、時代を導いたともいえる。写真のようにしかものを見ることができない人間に、物の新しい見方を提示したのだ。人間は自由に、ものは見たいように、自分の目で見ていいという事である。

 写真のように万人の共通の見方を良しとする人もいれば、自分の心に迫ってくる何ものかを見ようとする人間もいる。そいう自由な、しかもその人の個性による見方の違い。こういう自分というものが大切なんだという事を示したものが近代絵画である。時代が逆行して、またぞろ写真のようにしか見ることのできない作品が、商品絵画となってきている。

 近代絵画も拒絶された時代がある。写真のように見えないで、ゴッホのようにしか見えないとすれば、狂人であると思われ、無視された。しかし、美術という世界では、その価値を見出し世の中に示した人もいてくれた。おかげで私たちは眼を開かれ、その新しい価値を見ることが出来る。

 人間存在の自由というものが美術によってずいぶんと教えられたと言えるのだろう。表現というものは今の自分の物の考え方と違っているから、と言ってそこで拒絶すれば、大事なものを学ぶ機会を失う可能性もある。

 美術監督、学芸員、美術評論家。そうした人は社会にとって何が有用かを研究し、方向を指し示す人でなければならない。現代社会はそこが一番失われている。名古屋市長の様な芸術の意味に全く理解のない人も政治家には実に多い。大衆に迎合し、選挙に有利であればそれで良しという考えの程度の政治家が、芸術に口を出すようになれば、芸術は衛生無害なものになり衰退する。

 そうした、世間の見方の浅薄さに対して、芸術の価値や意味を分かりやすく、主張するの人が美術館の権威として存在しなければならない。ところが、現代のほとんどの公的美術館の関係者は時の政権を忖度する程度の、姿勢しかない人たちで出来ている。ここは本当に情けないことである。

 そのために、芸術が衰退したともいえる。本来芸術はそうした美術を取り巻く人たちが、防波堤になり、耕し育てるものである。現代の美術評論家という人のそうした未来志向の芸術論は、ほとんど目にすることがない。あるのは商品絵画のちょうちん持ち程度である。ネットにおいても見当たらないのが現状である。

 今回の、表現の不自由展の作品は問題点が存在した。一つは展示の前提として、心を傷つける人に対しての配慮がなかった。もう一つは表現者自身に傷つく人への思いが浅かった。その為に芸術作品としての力が弱かった。

 表現よって誰かを傷つけることは展示の配慮さえあれば構わないが、傷つける意味に対して、表現者としての認識が深くなければ作品とは言えない。批判すべき相手を攻撃する手段としてだけでは作品とは言えない。

 従軍慰安婦を意味する少女像が、人間というもののやりきれない思いまで、表現している芸術作品になっていないから、力がない。それは却って従軍慰安婦運動の意味まで示してしまっているのではないか。

 この像が作品として、抑圧強制される人間というものの意味まで、表現されているかが問題ではないだろうか。そんなことはどうでもよいという事になれば、傷つけられると思う人が、展示すべきではないいう意見が支持されることになる。

 この像の展示によって、制作者の意図とは逆効果が起こるに過ぎない。現状はそんな状況だと思う。少女像に説得力がない。これが、デモ行進の看板であれば、そんなものであろうが、芸術作品として美術館に飾られた場合、そうした本質の評価の目にさらされることになる。

 

 - 水彩画