石垣島の農地の歴史が描けるのか。
石垣島に出会うことができてとても幸せだと思う。若い内に石垣島に出会えなかった事は残念なことだが、これから残りの時間を、絵を描きながら、この島で暮らせることはどれほどの幸運かと思う。
石垣島に惹きつけられたのは、石垣島の農地の姿だ。人が暮らしのために耕す土地というものが好きだ。その原初的な姿が石垣島の田んぼにはあった。植林された杉林を美林と呼んだ歴史がある。自然林よりも人が育て上げた林を美しいものと感じた江戸時代。農地にも美しい田畑というものがある。
人間が自然との関わりの中で、生活のためにギリギリのところで作り出した農地のことである。生きるために人間が汗と涙で作り出した農地のことである。自然と人間が関わりを持ち、循環する農地。自然の中に織り込まれ、自然と調和する農地の美しさに惹きつけられる。プランテーションの農地を美しいとは感じない。
石垣島にはまさにそういう命がけの自然との関わりを、実際の姿として残した農地がまだ存在する。それは、幸せな家庭から炎が見える。と詠った八木重吉の詩ように、私には暮らしのための農地からは炎が見えるからだ。私が見ている炎は、石垣島が南国のリゾート地ではないといっている。
国という権力は国の都合のために、人間の暮らしを犠牲を強いる。明治、大正期には富国強兵のために、日本帝国は日本人を痛め続つづけた。お国のためと言われ、国は人間を棄民したのだ。お国のためなら命まで仕方が無いというお国とは何なのだろうか。
そうして、江戸時代3万人近く暮らしていた石垣島が、明治大正期には半分にまで人口が減少している。江戸時代の薩摩藩の圧政が、人頭税の過酷さとして盛んに言われるが、明治政府の締め付けの方がさらに過酷なものであったと考えた方がいい。
明治政府は自分たちの圧政をごまかすために、必要以上に江戸時代を苦しい時代としたのだ。そしてねつ造の歴史教育を行った。帝国主義とは歴史までねつ造する。それは東北の飢饉も同じで、江戸時代の飢饉以上に苦しい明治の農村があったのだ。
その暮らしの困難な石垣島が戦後には政策移民の島になる。宮古島は戦後外地からの引き上げ等で、なんと人口7万5千人まで膨れ上がる。そして、ヤキーの島石垣島に多くの人が政府の開拓移民として送り込まれることになる。ヤキーの島とはマラリアに感染する恐ろしい島のことである。
沖縄本島からは、米軍基地の拡張のために農地を失った、農民たちが、大量に石垣島に開拓移民となってやってくる。石垣島の開拓は道路さえない僻地に入植して、マラリアに苦しめながら、ついに開拓を成功させたものなのだ。逆境を跳ね返した開拓移民の栄光。最も尊ばれるべき人の暮らしだ。
積み上げられた石ひとつにもその、生活の思いがこもっている。今では家屋や住民の方からは、開拓時代の苦しさはほとんど感じられないのだが、切り開かれた農地には開拓農民の気持が宿っている。それは徒やおろそかにしてはならないものだ。
石垣島の風景は、一見南国のパラダイスである。青い海、深い緑の山。飛んで行く白い雲。珊瑚礁に、白い砂浜。ヤシの林アダンの茂み。美しすぎるこの風景の中には、生きる悲しさがこもっている。だからこそといえば怒られるかもしれないが、農地の美しさも格別なのだ。それが人間の暮らしの現われた農地の姿なのだ。
石垣島の美しさは人間の暮らしが作り出した美しさなのだ。だから、似たような島ではあるが、西表島の天然の自然の絵を描くことはできない。西表の方が太古の自然が残り、美しいさだけでいえばより美しい島なのかもしれない。もちろん、飲み込まれてしまいそうな西表の農地も素晴らしいものではあるのだが、自然に飲み込まれてしまった農地の方が多くて、つらい。
開拓農民が暮らすということは、どれほど大変なことかと思う。その苦しさの一端は山北で、自給自足生活をしたことのある者として、少しは知っているつもりだ。ちょっと甘い見方かもしれないが、シャベルだけで、自給自足を達成してみればその意味は身体が分かることだ。
開拓農民はどれほどつらく、しかし同時にどれほどやりがいがあることかと思う。自由移民という言葉がある。政府や米軍とは関係が無く、自分の意思で生活を求めて、石垣島に開拓で入った人達もかなりいる。さらに、現代においても、石垣島に入植する若者がいる。
いつの時代も人間は、自分に向き合い、その力で世界に挑戦するものなのだろう。その世界が直接的な自然そのものという人も居る。そしてギリギリのところで折り合いを付けるものが、自然の中の人間の暮らしというものだろう。
若い頃のわたしが、石垣島で自力の自給自足に挑戦したとしても、できなかったと思う。機械を使わないで、開墾するには石垣島の自然は余りに手強いものだ。山北で良かったと思う。
暮らしが、自然に付けた刻印が農地である。明日生きるために作り出した農地は美しいものなのだ。動物の目には食べれるものが美しいものに見えると話した人が居た。人間が自力で暮らしているということが私には一番美しい姿に見える。
この美しさが私の絵になければ、ダメだ。そうでなければ私の絵ではない。ゴッホの最後の麦畑の絵は麦畑を耕す人になれなかった苦しみの表現だ。私の描く石垣の風景は一緒に耕す人の絵でありたい。美しい風景を美しい絵空事として描く絵ではない。その農地にこもる悲しみまで描く絵でありたい。
畦がコンクリート化した、四角四面の田んぼを少しも美しいとは思わない。その方が合理性があるという考え方自体が、美しくないからである。自然と折り合いを付ける。これには少しやせ我慢が居る。長い目で見る合理性がそこにはある。
石垣の田んぼは、不思議な形に変型しているところがある。川があれば川の蛇行に影響を受ける。起伏があれば、起伏に従っている。全く意味なく、複雑にお隣の田んぼと入り組んでいるところもある。何かもめ事があるのかもしれないと想像をさせる人間らしい農地。
絵はそういうすべてを描くものである。私の絵が芸術的にどんなものであるとか、人と比べてどんなものかとか。そういうことは関係の無いことだ。好きな石垣島の姿がきちっと表現されたものでありたいだけである。
まだ、10年ある。そのことを実現したいと思う。年をとり感性が鈍くなり、絵はダメになるのかもしれない。しかし絵としてはダメであってもこの石垣島の開拓の農地の姿だけは描かないわけには行かない。