持続可能な日本はどこにあるのだろう。
ネコは駐車場が好きだ。何故か駐車場の中央でいつもたたずんでいる。
日本はこのまま行けば崩壊すると言う不安が消えない。世界経済の中の日本を考えれば、高度成長期の夢よもう一度という、アベ政権の方向は間違った政策だと私にはおもえる。ソフトバンクの孫さんが日本から事業展開を海外に移すのも当然のことである。成長を望むのであれば、日本を離れるほかないからだ。
日本には縮小安定するという選択しか無い。もう一度成長したいと考えることは、すでに過去の成功体験が眼を曇らせているのではないか。日本が高度成長したときの条件を考えてみれば、分かることのように思える。低賃金の労働力のある国は成長する。韓国でも中国でも、似たようなことが起きた。
高度成長の波に乗る国へ企業が主軸を移すのは当たり前のことだ。企業は利益を求めてうごめく。然しそれは企業の利益であり、日本とという国とは別のことだと考えた方が良い。孫さんは日本で儲けられなくなったと嘆いているようにも見える。
極端な人口減少が高度成長期の終わりを示す。人口減少は日本人の肌感覚の結果起きている。アベ政権は日本の既得権益を守ろうとしてあがいているだけだ。本当に日本の未来を考えているのであれば、現状をうまく行っているなどと考えるはずがない。
世界を支配した国にはそれぞれの理由がある。英国は植民地。アメリカは資源と国土の条件が別格。日本はそうした特別なものはない。安い有能な労働力で勤勉に働いたことで、少し早く高度成長を果たした。しかも世界的な水準の学問の世界があった。中国はアメリカに匹敵するような広大な国土と、桁外れの人口を生かし、世界との競争にめざましいものがある。
既得権益の代表アベ政権は新しいことよりも、今あるものをどう維持するかばかりに気をとられる。新しいことに臆病になっていて、経済成長があるわけが無い。アベノミクスで新しい産業の創出ができなかったにもかかわらず、出来た出来たと騒ぐ口先の薄っぺらさを見ればよく分かる。
日本経済が縮小しながら、どこで安定できるかが差し迫った課題だ。政治というものは希望的な観測を打ち上げないと、支持されない。そのために夢をもう一度と残念ながら野党も、充分に現実を見ることができない。選挙で勝利するために、精一杯である。
もう政治に期待することは諦めるほか無い。投票には行くが、それ以上のことは無駄骨だとしみじみ思う。石垣島の自衛隊基地の住民投票が三分の一の住民の署名での要望がありながら、実施されない。そのまま自衛隊基地は建設されている。やむえず、住民が行政訴訟を起こしている。これこそ、民主主義政治を捨てた姿だ。
もうそれぞれに自分の暮らしだけを考えた方がいいと思うようになった。そうしなければならないほど、国の形がおかしな状況になっている。自分の暮らしの構築に取り組むことが優先である。
小さな仲間を見つけるところから始める。仲間を見つけるには自分が始めなければならない。絵の仲間を見つけるには、自分が精一杯絵を描いていなければならない。自給農の仲間を見つけるには自分が自分の形の自給に取り組まなければならない。
真剣にやっていれば仲間は現われる。一人でできるようになり、心を開いて居れば、仲間は自然と集まる。一人からみんなへである。一人でいるのではさらに生きにくくなる。こんな社会の中では心通ずる人が集まるほか無い。
残念ながら伝統的な日本の価値感が失われた。これは20世紀の世界的な傾向だろう。私の子供の時代はまだ家のために生きている人が沢山居た。自分のために生きる事が許される、良い時代になったと見えたにもかかわらず、自分が何も目標にすればいいのかが見いだせない時代になっている。それで金儲けの何が悪いという居直りになる。金儲けの人生など少しも価値がない。
立派な田畑を子孫に残すというような事に価値を見ていた人が沢山居た。家の名誉のために頑張る人が居た。こうした価値観もほぼ無くなった。良かったことなのだが、経済的成功の価値が相対的に高くなった。目標が見つけられないから、金銭的成功だけになった。
国民一人一人が金儲け以外で何をよしとするのかが無いのだから、当然国という単位では、次の価値観が見つけられない。目標の無い国になった。その結果拝金主義が目立つ国になったと言うことだろう。見苦しくも、ラスベガスを日本にも作ろうなどという国になってしまった。きれいごとを言っていた、横浜市長までこのありさまである。
いつの時代も拝金主義なのだが、それを超える価値観があった。それが拝金主義の卑しさを抑えていた。
こうあるべきと言う生き方が無いと言うことが、自由に生きると言うことを生み出すはずだったが、規範が無いと言うことで、自由に生きることはかえって難しいようだ。絵で言えば、売れる絵は存在するが、芸術として優れている絵は見当たらない状態。
今の状況を認識しない限り、さらに悲惨な崩壊になると言うことだ。経済の遅れた国になろうとかまわないが、文化のみすぼらしい国は嫌だ。日本文化を失いつつあることを、もっと深刻に受け止める必要がある。これは稲作から離れたことが原因では無いかと思っている。
愚痴が続いてしまった。申し訳ない。日本のこの先をおもうと、どうしてもこうなる。日本は小さな美しい国でいいのだ。平和な文化国家であれば、ほかは生きて行けさえすればいい。
そのためにはまず自分の脚で立ってみることではないだろうか。自分の足で立つとは、人によってさまざまであるが、私には食料を自給するという事だった。食糧を自給できた時に、生きて死んでゆく安心の基礎を見いだせた。
日本人全員が有機農業で、自給自足するとしても、日本の農地は足りる。一家族が3人として、一反1000㎡あればいい。1ヘクタールで10家族で協働する。日本の耕作地面積が450万ヘクタール。4、500万家族が自給自足ができる。
私はあと4年ほどしか農作業はできない。少しでも自給農業を伝えることにかかわりたいと思う。自給農業こそ、持続可能な日本の原点になるはずだ。これが私が生きてきた恩返しである。長野から、農の会のやり方を知りたいと訊ねて見える方がいた。農の会のやり方を人に伝えることも大切だ。