やっとテレビ時代が終るようだ。
やっとテレビの時代の終わりが来たようだ。団塊の世代はテレビによって作られた、テレビ世代だろう。まずはテレビのスイッチを入れるという人が多い。今の若い人がスイッチを入れるのは、スマホかパソコンなのだろう。
テレビというものは1950年代、子供の頃できた。今となってはテレビが無かった時代を記憶している少数派である。子供の頃テレビが無かったおかげで、山村の暮らしを堪能することができた。せいぜいラジオの相撲ぐらいである。テレビを見るようになったのは、東京にいた高校生のころだと思う。
相撲を見て驚いた。ラジオで想像していたものの方がすごかった。人間の聴覚から得ている情報というものが、視覚的情報が加わることで、つまらなくなる。人間の声というものはすごい情報量だと思った。
テレビはそろそろ社会の決定的要素ではなくなろうとしている。良かったと思う。やっとこの日が来たと思う。世界を悪いものにしたひとつであろう。しかし、テレビを駆逐しつつあるインターネットというものは、いいのか悪いのかまだよく分からない。
私がこのブログを必要に書いているのは、インターネットを一人ひとりが全世界に発信できる方法だと信じたからだ。民主主義が一歩進むかもしれないと考えているからだ。マスメディアでは無く、私信の力が発揮できる世界が来るかもしれないと思っているからだ。
私の絵も自分なりに納得ができるときが来たら、インターネットで発表できればと考えている。もちろん誰がどんな利用法をしてもかまわない。私の絵が売られていると先日、水彩人の仲間が教えてくれた。それは誰れかが印刷したものだった。
こういうことも全くかまわない。私絵画では描くことが主たる行為なのだから、その後のことはどうでもいい。インターネットと高度の印刷技術で、商品絵画の時代が終わってくれればと思っている。
テレビというものが今の社会を作り出した。トランプも、プーチンも、習近平も、そしてアベ政権もテレビから生まれた、アニメキャラクターのようだ。まるでテレビCMで流される商品のような気がしてくる。売れ筋商品のようではあるが、一過性の商品の匂いがする。
と言っても最近はテレビを見ることが少ないので、今時のCMと言うものは良くは知らない。ネットではこのブログにもCMが入る。ここに入るCMはお金を払えば消すことができるという。しかし、無料という所が、ネットの良さだと思うので、有料でCMなしを選択しない。
テレビよりネットの方が好きなのは、見る側が選択を自分でできるところだ。テレビは気に入らないものでも、なんとなく見せられてしまう。馬鹿ばかしいと思いながら、くだらないテレビを見てしまい、いやな気分になることがままある。
人間は習慣に弱い。私の場合、NHKの連ドラが習慣である。あれを見終わると絵を描き始める。団塊の世代なのだろう。将棋も見るが、将棋はテレビでは見ない。ネットでいくらでも自由な時間に見れるからだ。連ドラもネットでいつでも見られるようになるとしても、見るかと言えば、多分見ないだろう。
ネット広告というものがテレビ広告を経済規模で逆転した。ネット広告というものはまるで行動に即して、表示される。絵の色をおかしくしないライトは無いかと言うことで。スポットライトのライト色の種類を調べた。途端に、スポットライトの広告ばかり出るようになった。
この広告の出し方であれば、ネット広告の方がテレビよりも効果は高いだろう。だから、めざといに違いない広告主はネット広告に力を入れるようになったのだろう。そうなると、ネットのビックデーターを使いこなした、広告会社のものが有利と言うことになる。
ネット広告業界では、情報を欲しい人に、的確にCMを送れるようにしのぎを削っていることだろう。こうした手法はドンドン洗練してゆくに違いない。知らないうちに、他社の製品の問題点をすり込んでゆくとか、欲しくもないものを欲しくさせる方法なども出て来ているのだろう。
映画の中に、見えない映像が仕込まれ、コカコーラが飲みたくなるように仕組まれた事件があった。サブミナル効果と言うらしい。インターネットの刷り込み効果については、今後社会を動かすぐらいのものになる。
ネットでは文章の中には、巧みに宣伝を織り込んで、広告をしていると思われるものがある。口コミとかレビューと言うものがあり、使用後の感想が沢山書かれている。これも宣伝の一種と考えていいのだろう。まだまだネット広告は開拓時代だ。
ともかくこんな具合でテレビが終リ始めている。ネットの方が深刻な社会的影響の問題が潜んでいるのではないかとは思うが、当面のテレビの行った政治の堕落を思うと、テレビの終わることが嬉しくなるので、後のことはともかくまあ良かったと思う。
アベ政治というものはネット的政治に切り替えが早いだろう。テレビ的政治からの乗り換えが早いものが選挙に勝利する。れいわやN国はテレビでは無く、ネットで勝利したのだろう。テレビによって政治に無関心になったと言うより、意識して政治に無関心にさせたのだろう。投票率が下がるほどに、ネットの影響は強くなる。
今回の韓国との経済戦争はまるでネット上の争いのような気がする。韓国が何をすれば、嫌がるかが実に巧みである。計算尽くである。とことんシュミュレーションされているようだ。まるでコンピュターゲームのようで人間の痛みというものが感じられない。今第2段階まで来たところのようだから、もう一段階あるのだろう。
アベ政治を木偶人形芝居一座と批判してきたが、その脚本づくりはコンピュターのビックデーターに基づいている。コンピュターシュミレーション原稿なのだろう。練りに練っていた案が、実行されているように見える。
その目的が憲法改定だとすれば、日本には第3段階の手段が考えられているはずだ。つまり軍事的緊張を高める手段である。日本の漁船が拿捕されるとか。こういう政治手法がテレビから、ネットに変わったと言うことでは無いだろうか。
韓国は読み違えていた。だんまりを決め込めば、済むと考えていたのだろう。あるいは動きがとれなくなっていたのかもしれない。韓国の反応は、余りに単純で攻撃が無い。シュミュレーションが無かったにちがいない。
政治も経済も、テレビとネットが入れ替わって行く。