食糧自給率37%の国にくらす不安
石垣島の宮良川上流。このあたりで鶏の声がしていたのだが。最近聞かなくなった。
昨年度2018年の食糧自給率は37%であった。エネルギー換算である。過去最低である。食糧自給率の統計が取られた初年度の1965年が73%で一番高かった。その後一貫して低下して、このところは40%を切る数字である。
世界は人口増加の一途である。そして耕作面積は減少している。食糧危機は迫っているのだ。日本は人口減少にもかかわらず自給率が低下している。自給率が50%を切るような国は自立した国家とは言えないだろう。
自給率がここまで低いと言うことを深刻に受け止めるべきだ。韓国が、日本にICチップの製造材料を依存していために、大変な事態になっている。日本に経済圧力を加えるとすれば、食料であろう。
政府は2025年に45%を目指すとしている。この数字でも安定して暮らすためには極めて低い数字である。中間目標である。日本ほど恵まれた気候の国であれば、100%の食糧自給率であるはずだ。その低い数字ですら遠のいているばかりである。これもまたアベ政権の薄っぺらな口先標語に過ぎない。農業軽視としか思えない。
アベのミックスもダメであった。新しい産業の創出ができなかった。それでも、上手くいっていると総理府の文章には出ている。成功と言えば、見解の違いで責任をとるものはいないで済む。食糧自給率もできないでも誰も責任をとらないだろうし、国民も追求はしないだろう。これが良くない。
理由が無いにもかかわらず、達成できなかったとすれば、誰かが責任をとるのがまともな社会だ。最終的には総理大臣の責任だ。最近の政治は適当で、できないでもおざなりでは無いか。保育園の方はどうなったのか。
食糧自給率などたいしたことでは無いと思い込まされている。いつでも輸入できる。アメリカが売らないというなら、ブラジルから買える。オーストラリアから買える。この考えが間違いなのだ。中国が食糧輸入国になった。インドやアフリカの人口増加は深刻なものだ。地球は食糧危機が迫っている。日本は人口減少しているから、この点で鈍感ではないか。
戦争で一番つらかったのは食糧不足であったと、父も母も常々話していた。父は中国の最前線での7年間兵隊生活であった。その7年間の戦地の方がまだ食糧事情はまだ良かったそうだ。戦後の食料不足は深刻で、アメリカの食料援助が無ければ、恐ろしい飢餓が起きたはずだ。
両親は今は米軍に接収された、相模原で開墾をして食料生産を戦後始めた。それでかろうじて食料を確保して生き延びた。その開墾で父と母は出会った。母の実家の向昌院では子供を東京に出すために相模原で開墾を始めた。
叔父達3名に僧侶になるために開墾をしながら駒沢大学に行けというのであった。東京の父の家は食料が無いから、相模原で開墾を始めた。そこで父と母は結婚することになる。農業をしたことの無い父の家を、母が手伝ってくれたのだ。
父の弟は稲作の研究者であったのだが、実際の食料生産には役に立た無かったらしい。父はそもそも畑をできなかった。東京芝に生まれ育った父には畑仕事はできなった。母ひとりが耕作者として活躍したらしい。おじさんも駒沢大学に行きながら、手伝ってくれたそうだ。
母は実家の向昌院が自給生活をしていたから、百姓の自給能力は高かったのだ。その後、母は山北で挑戦した私の開墾生活もずいぶんと助けてくれた。私も向昌院での暮らしで自給生活はいくらか身についていたので、山北の自給生活は楽しい暮らしだった。
自給に一番重要なことは機械でも農地でも無い。人間である。農業に携わる人間が第一である。相模原の開墾地の一角に兄妹で耕作していた人がいたそうだ。サツマイモの苗を植え方さえ知らなかったので、叔父が変わって植えてあげたのだそうだ。
ところが水が無い場所でサツマイモは枯れてしまったそうだ。そして結局は妹さんが飢え死にをしてしまった。同級生に栄養失調で死んだ子供がいた。そんな時代が本当にあったと言うことが分かっているのだろうか。農地があってもやり方が分からなければ食料はできない。そういう当たり前のことが、今深刻になっている。
子供の頃池田勇人という大蔵大臣がいて、貧乏人は麦を食えと答弁して大騒ぎになった。しかし、いまや国は貧乏人も大金持ちもコメを食えと言ってもいい事態だ。まずは、コメを消費税から外す。国の安全保障のためだ。一日に玄米2合と宮沢賢治は詩を書いた。コメさえあればなんとかなる。コメの作り方が分からなくなれば日本は終わる。
稲作はこのまま5年もすると、大きく変わるだろう。70歳を超えた農業者の年齢はいよいよ、耕作不能年齢になる。田んぼをやれる人がいなくなる。これからの5年間に新しい農業をやる人を作らなければ、日本は食料生産のできない変則的な国になる。
日本人の暮らしは体を動かすことから、頭だけを動かす仕事に変わり始めている。農業から離れた日本人は体を使う仕事を嫌うようになっている。外国人労働者が日本の農業もやるようになるのかもしれない。しかし、それは労働者を雇用するような大規模農業企業であろう。日本の農地の多くは中山間地の農地である。耕作不利な農地は急速に放棄されるだろう。そして地方は消滅する。
特にこまめな水利管理の必要な小さな田んぼは維持できない可能性が高い。それは小田原でも同じ事だ。最近お隣の田んぼの下田さんが亡くなられた。同い年で一緒に自治会をやらせてもらった。私の後の自治会長である。農協に勤められていた方である。久野でも古い家で、広い農地や山をもたれていた。
誠実で熱心な方で、ずいぶんと助けられた。自治会長をなんとか私のようなよそ者ができたのは、下田さんのおかげである。下田さんは広く田んぼを耕作されていた。自らコツコツと農道を作り、水路を整備され、楽しそうに田んぼ作りをされていた。信頼できる下田さんに耕作を依頼する人は増えているところだった。
この後どうなるのだろうと思うと、呆然とする。全国に広がっている不安であろう。どう引き継ぐかが、現時点での農地の一番の課題だ。団塊の世代が農業ができなくなる、あと5年がタイムリミットである。政府は45%に自給率を増やすと言いながら、無策である。無策であるから、自給率が下がるのである。食料を忘れている総理大臣の国の不幸。
国が責任を放棄している以上、次の世代につなぐ方策を、全国でそれぞれの方法で当事者が編み出すほか無い。子供がやってくれると言う人は幸運であるが、全体としてはもうそうした継承は考えられない時代だ。次の人をそれぞれが見つけ出す以外に無い。
私のように30代で農業に入ったものですら、次に引き継がなければならない切羽詰まった状況である。あしがら農の会では次への引き継ぎが始まっている。あしがら農の会は緩やかな連携の中で、次にやりたい人が加わりやすい環境を作っている。
初めてでも一緒に田んぼができる条件がある。1万円の会費で120キロのお米が配布できる。これが25年継続できた。だから未来にもつながっている。16家族の新規就農者も育った。農の会は仕組みである。良い仕組みがあれば、素晴らしい人が自然に集まる。
地域の優秀な農業者が助けてくれる。農業の研究者も助けてくれる。農地の紹介など行政の支援も受けやすい。未来に農業を継続するひとつの方法だと思う。小さな競争力の無い農地を継続するひとつの方法である。あしがら農の会の仕組みを研究して、利用して貰いたい。
農の会の仕組みは小田原では上手くいった。多分都市近郊では可能な方法であろう。それぞれの地域に合う方法を、農業者自身が見つけるほか無い状況である。国は農地法を変え無ければならない。しかし、もうそんなことを待っている時間は無くなっている。