インフルエンザ新薬「ゾフルーザ」の耐性菌の出現
インフルエンザ新薬「ゾフルーザ」の耐性菌の出現については、前回書いたとおりであるが、その後学会的にもこのままではゾフルーザには問題があるという事で、対応策が検討されている。前回、医学の知識のないものが余計なことを書くなというコメントがあった。知識のないはずの私の意見に学会が同調したかのように、日本感染症学会がゾフルーザ投与の指針作りに乗り出すと言う。素人の生活感から出た素朴な意見は大切だと思う。このブログはごく普通の生活者の視点から、かかわる問題を書いている。前回発表では73%という耐性菌の出現とされている。今年のインフルエンザ患者277人中28人がゾフルーザ耐性のウイルスだったそうだ。他の薬を飲んだ人もいるにもかかわらず、すでに一割の人がゾフルーザの効果のない患者になっている。ただし、10%の耐性菌出現なら想定の範囲内だったという事のようだ。耐性菌が患者の1割に出現することが予想される薬が認可され使われている。この考え方は間違っていると思う。問題が深刻なところはこの耐性菌から、人ひと感染がすでに確認されている。3名はこの薬は飲まなかったにもかかわらず、耐性菌のウイルス感染だった。この患者にはゾフルーザは効果がないという事になる。耐性菌だとわからずゾフルーザを使えば間違えが起こる可能性がある。人ひと感染の1%は想定されていたのだろうか。
薬を使った事で、より深刻なウイルスを出現させてしまったという事だ。それはゾフルーザだけでなく、薬というものはいつもそういう事を起こす可能性がある。鳥インフルエンザの流行でも、養鶏場内で感染しない鶏がいたという。これを何とか残して、今後の病気対策に使わなければならないと、繰り返し主張した。ところが政府は闇雲の全鶏淘汰である。全く知恵のない目先の対応がなされている。例えば、エイズに感染しても発病しない人もいる。発病する人と発病しない人を遺伝子的に調べると、感染しない遺伝子を持っているらしいという事が分かってきた。鳥インフルエンザに感染しない遺伝子の鶏は居るのだ。その貴重な遺伝子の鶏を増やすことが当然病気対策になる。そんなことは実は、自然界では普通に起きていることだ。こうした自然淘汰の結果、何百万年も生物は種を維持してきたに違いない。病気に強い者だけが生き残ることで、その種は維持された。人間はここが違う。弱いものも生き残らなければならない。だから薬が利用される。それが人道的という事なのだが、その為に起こるより深刻な事態への対応をどうするかという事であろう。
畜産に関していえば、薬で予防的に病気を抑えるという考えは捨てるべきだ。薬を使わなくとも病気の出ないような畜産を行う。私はそういう鶏の飼い方をしてきた。そのことは「発酵利用の自然養鶏」に書いたとおりである。大規模畜産は薬が誕生して可能になった。薬のすべてが問題だというのではない。耐性菌を産むような薬の使い方。あるいはウイルスを強毒化するような使い方。薬剤を予防的に多投するような大規模畜産ではよほど気お付けなければ、人間にも感染するような新しい病気を出現させる可能性がある。つまり、10%は耐性菌の鶏が現れる。1%はとり鶏感染が予想される。こういう薬が認可して使われるのだ。しかも大規模畜産では、人間どころではなく消毒薬が使われている。衛生管理という事で、殺菌剤が大量に使われている。ネズミやゴキブリを入れてはならないなどと、ほとんど不可能な主張がされている。ずいぶん養鶏場は見て歩いたが、現実にはそんな養鶏場は一つもなかった。あり得ないようなことが前提とされて、大規模な家畜飼育が行われている。そのためにゴキブリ一つ生息できない養鶏場で鶏は暮せというのだろうか。
大規模畜産は危険度が高い。家畜を飼うのは一定数以下の分散型にした方が安全である。自然養鶏はそれを可能にしている。私は生涯をかけてそれを証明しようとした。実現できたと思ったところへ、鳥インフルエンザの流行が起きた。大規模畜産は経済競争の中でより大規模化しているのが、現状である。それが国際競争に勝つ農業という事になっている。人間の暮らしも同じである。都会の暮らしがインフルエンザの流行を生む。人間の暮らし方を考えようとしないで、薬による解決だけを考えても問題は深刻化してゆく。病気にならないような暮らし方を出来るような世の中にすべきだろう。私は風邪を引いたならば、静かに寝て直す。風邪にかかることだって自分の命にとって意味があることに違いない。受け入れて耐える。勤めていれば、そんな悠長なことは言っていられないのだろう。満員電車での通勤は良くないとなれば、そのうち満員電車には、「インフルエンザが流行しております。これから薬を噴霧します。」こんなアナウンスが流れるようになるかもしれない。すでに、週に一回相当に強い薬で殺菌されるらしい。だから、曜日によっては電車に乗らない様にしているという人にあったことがある。限界に達する前に人間の暮らし方の見直しをすべきであろう。