令和はなるほど、わるくない。

   

令和ということになった。第一印象は違和感があり驚いたが、私の予想は上和だったので遠いわけではなかった。和を予想した人は多かったと思う。令がつくと考えた人はいなかったのでは無いか。令はやはり命令の令という印象が普通だろう。令嬢の令と考える人は少ないだろう。なんか上から目線は、いかがなものかという意見は出ることだろう。どんな言葉でも必ず異論はある。アベ総理大臣が、余計な発言として国書からと言うこといったそうだ。口に出してしまうところが、この人の人間のできていない浅いところだ。国書もいいが、漢字である以上そもそも、中国の引き写しに決まっている。万葉集の但し書きなど、捜せば中国の古典に同じような文章があるに決まっている。そもそも、漢字と言うぐらいで、中国のカンの時代の文字を学んだ。学んだことを恥じる必要は無い。日本文化はすべてと言ってよいほど中国の影響がある。そういうことは大事なありがたいことだ。漢字を上手に日本語に取り入れ、仮名文字と併せて実に見事な日本の文字を作り出したことが素晴らしい。これは誇らしいことで、中国を意識しすぎる必要などどこにも無い。
30年平成があったわけだが、30年令和時代はあると考えてもいいだろう。すると残りの100歳までを令和を生きることになる。平成になって以来、西暦との関係がよくわからなくなった。時代の区切りとして、日本独自の時代表記をもうけるのは悪いことでは無いが、西暦に統一すべきこともままある。銀行や企業は、すべて西暦の方の統一がよい。天皇についても、時代についても、象徴としての価値がよい位置である。産業的利用は西暦の方が世界になじんでゆくためにはふさわしいだろう。時代区分が外国の人にはわかりにくいであろうし、不親切になるかもしれない。政府が天皇を利用しないのであれば、役所の表記も西暦に統一していいのでは無いか。問題は昭和一桁世代などと言えなくなる点、少し収まりが悪いかもしれない。生年月日と死亡日時、あえて結婚の申請だけは特例と言うことにすると、収まりができるのでは無いか。令和一年が2019年と言うことになる。この換算がしばらく大変だと思っていたら。018レイワと読んで西暦から引けばいいと書いてあった。なるほど利用させてもらおう。平成では間違えてばかりいたので、できるだけ使わないようにせざる得なかった。
令和は最初びっくりした割に、すぐに収まりがいい。きっと悪い言葉では無いのだろう。命令する平和でも、いいでは無いか。平和は上から目線でも悪いものじゃ無い。憲法と同じに考えれば、権力に平和を命令するという捉え方もできる。私など平和を上から命じてもらいたいぐらいだ。すぐに努力させてもらうことにする。それにしても安が使われなくてよかった。この危険は相当にあったとおもう。さすがに忖度効果の不足かな。何しろこの元号の決め方は実にアベ方式だった。例の諮問機関方式である。いかにも諮問員が自由に決めるように見えて、実は忖度をする諮問委員を選ぶ可能性がある。そして、なんとなくみんなで忖度してとなる。誰が決めたかわからないようにするというのも、わかったようなわからないような。誰が決めてもいいものはいいだろうし悪いもは悪い。何に決めても、決めれば賛成と反対がある。それなら候補を10決めて、国民投票で決めたらどうか。まあそこまでやるほどのことでも無いか。
平成天皇は象徴天皇の位置づけをした。これは大方の一致した見方だろう。天皇は象徴という立場を、日本国憲法にに従う必要があると考えていたと思われる。憲法には天皇は日本国民統合の象徴であると書かれている。このことを一番考えていたのは天皇自身であり、政治も、国民もこの大切なことを真剣に考えなかったことはいけないことだった。平成天皇は戦争体験とその慰霊と償いの思いが強かった。天皇の行動は憲法の範囲での自由。だから、平和にはとても熱心であった。しかし、それは憲法を拡大解釈せず普通に解釈したからだ。しかし、拡大解釈する総理大臣がいるように、拡大解釈する天皇が現れる可能性もないわけではない。こうした危険を考えると、天皇の象徴としての役割も、徐々に控えめにしてゆく必要がある。京都に引っ越してもらう。京都で日本文化の暮らしを象徴してもらいたい。アベ政権ができたぐらいだ。アベよりもさらにおかしな政権が現れる可能性がある。国民全体も、付和雷同しない、冷静かつ中庸な判断力を失いつつある。簡単に先導されてしまう可能性がある。天皇の役割をだれもが利用できないものにする必要がある。

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