コンピュター絵画の時代へ

   

米競売大手クリスティーズは26日までに、人工知能(AI)技術を使って描かれた絵画が、43万2500ドル(約4800万円)で落札されたと発表した。同社によると、「アルゴリズム」(計算手法)と呼ばれるAIの関連技術で制作された芸術作品の競売は世界初。予想価格の約45倍の高額落札という。

アルゴリズムで描かれたといってもよく分からない。アルゴリズムというのはコンピューターの思考方法だ。結論に至る最適な方法を手順よく進めるという事らしい。囲碁ではデープランニングというコンピューターの手法で人間を超えた。こちらはコンピューター自身が対戦を行いながら、強くなったという事だ。問題点を自分で改善できるという事らしい。絵画であれば、良い絵とされる静物画を記憶させ、リンゴ3つを描けばどうなるかというようなことをやるのであろうか。こういうのは私は絵だとは思わない。描く技術については、人間のレベルなど簡単に超えられる。ここまでは私は50年前に想像していた通り成り行きで、怖いくらいだ。機械がやるようなことを人間がやってどうするのかという事を、自分の絵の方向と併せて考えていた。悩んだ末、過去にあるものをなぞるようなことは、芸術ではないと結論した。技術的に他より優れているなどという事は、遠からず無意味になると考えた。それから自己否定する事が出来るかと進んだ。

かつてないものを描くという事が芸術であるとしたら、コンピューターが考える次の芸術としての絵画はどうなるのだろうかということには興味がある。かつてあるものから磨き上げるというのは職人の仕事であり、芸術ではない。ルールがあるゲームであれば、必ずコンピューターの方が上になる。良い絵というルールがあるとしたら、コンピュターの絵が勝るに決まっている。コンピューターの絵は商品絵画としては、人間を超える。それを芸術と呼び、人間がそこから感動を受けるのかに興味がある。囲碁ではコンピューターの手筋に人間が感動している。囲碁は遊びだからそういう事である。機械が増産できる絵はどれほど良い絵であるとしても、少なくとも私が目指す絵ではない。同時代の人間と競争し、評価されるなどどうでもいいと20年ほどやって分かった。分かって行き詰った。何のためにやるのか理解できないことを平気でやれるような人間に、芸術など作れるわけがないと思えた。そういう生意気な人間だったから、人に褒められる方向には進めなかった。

すばらしい絵を描くのはすばらしい人間だと、当たり前に戻って考えた。素晴らしい人間になるために得度をした。禅の修行のまねごとをした。まさに乞食禅である。ここが昔から今に至るダメなところなのだろう。その頃、三沢智雄先生や山本素峰先生の素晴らしい人間という姿に圧倒されていたのだ。素晴らしい人間になって素晴らしい絵を描きたいとあがいた。これも石膏デッサンをやるのと何ら変わらない馬鹿馬鹿しいことである。本当に生きるという事がない。それに気づいたのは40のころである。それで山北での開墾生活に入った。自分の為に描ければいいという事にならざる得なかった。ダメな自分であるのだから、ダメな絵を描けばいい。絵は自分の自覚の為のようなものだ。まず、見ているものを見えているように描いてみようと考えた。コンピュターであれば、見ているように描くというのはどんなものになるのだろうか。多分コンピューターには写る景色はあっても、レンズを変えれば、顕微鏡のようである。あるいは望遠鏡のようである。赤外線レンズかもしれない。人間が感じて見ているという事をどう分析するのであろうか。

コンピュター絵画が未来社会に登場するという事は、モナリザが必要な人にはモナリザを何枚でも複製できる。ゴッホの向日葵を部屋に置くことでもできる。コンピュターが制作する、さらに素晴らしい絵というものが出てくる可能性はある。しかし、私が私の興味と喜びで制作するという水彩画だけは残る。絵を描くという行為にある魅力だけは尽きないのではなかろうか。そいう自分というものにどこまで真っ当に迫れるかが絵をかくということだと思う。言い過ぎれば、人間が生きるという事はそういう事ではないのか。商品絵画の世界は、変わってゆくことだろう。職人技では勝負に負ける。人間が人間らしく生きるという事の意味が、より明確にされる。

 

 - 水彩画