有機農業の個人的定義

   

有機農業にはJAS有機基準というものがある。このJAS基準というものは主として消費者の為にできた基準である。この基準が出来てまがい物の有機農産物が減少したことは有機農業者にとっては基準の成果である。しかし反面、基準で農業を縛るという限界も見えて来ている。JAS基準というものは有機農産物の生産において、使ってはいけない資材が多数決められている。しかし、やるべきことについては全く触れられていない。美味しい安全な作物を作るための基準という意味ではない。JAS基準に従った作物だから、良い作物であるとは限らないことになっている。やってはならないことが決めれたとしても、やるべきことが間違っていれば、良い作物を作ることなど出来ない。私は養鶏を長年やってきた。現在は有機畜産JAS基準が出来たようだ。例えば飼料は70%(正確なところは知らない。)有機農産物でなければならない。こう書かれているとすれば、野山の草はどうなるのだろう。野山が有機認証を受けていなければならないという事になるのだろう。こういうことは実に形式主義である。その結果、JAS有機の卵を生産するならば、草は与えないという事になる。

放し飼いに対する考え方もそうだ。放し飼いは鳥インフルエンザの為に禁止されていた。今はどうなっているか知らない。禁止されていてもJAS有機基準の為には放し飼いをしなければならない。どんな放し飼いになるのだろうか。放し飼いと平飼いは似て非なるものだ。自然状態の原野に放し飼いされることが重要なのだ。自然の野山で遊ぶ鶏は素晴らしい鶏になる。草一本ない野外に鶏が出たからと言って何もよいことなどない。JAS基準では出来た農産物に関しては何の把握もされていない。良い卵とはどういう卵であろうか。卵である以上子孫が未来永劫続いてゆく卵が良い卵と私は考える。良い雛が生まれる卵である。自分で孵化しなければそういう事は全く理解できない世界であろう。自分で雛を孵化して、育てる能力がない養鶏業者が、まともな養鶏など出来るわけもない。有機基準だけを守ったとしても、良い卵が出来るわけではない。最も基本は鶏が好きで、鶏を観察できることである。こういうことが一番欠落しているのが、商品の卵である。

稲作で言えば、水ですべての田んぼは繋がっている。上の田んぼが普通の農業をやっていれば、その隣で有機JAS基準の田んぼをやることは極めて難しい。しかし隣であっても自給の為の有機農業の田んぼをやることはできる。お隣と共存できないようなものを有機農法とは呼びたくない。お隣と共存できないからやらないというのであれば、地域の有機農業は滅びる。ではお隣が有機農法ではない私たちの田んぼのお米が、JAS有機基準のお米よりも、生産物として劣っているとは考えていない。お米をどれだけ分析しようと十分に勝っている自信がある。有機農産物の生産者が、自分で苗を作らず、慣行農法の苗を購入しているというのでは、何か違うと思う。商品としての農産物だけがJAS基準で、商品でない農産物は慣行農法でやっている姿も、何か違うと思う。商品の価値基準から抜け出るためにも、自給農業である。自給でなければ本当に良い作物など作れないと思うからである。

有機JAS基準は良い作物を作るものでなければならない。一番の弱点は生産物の検査がないことである。生産物の残留農薬や、栄養分析位は行うべきだろう。枯れかかった有機農産物が本当に良い食べ物と言えるのだろうか。やってはいけない事だけでは全く分からないはずだ。卵で言えば、生きている期間で測定する事が出来る。一定の条件で生きている期間を基準にするのだ。何か月生きていて孵化できる卵であるか。ダメな卵は2週間もすれば孵化できなくなる。良い卵であれば、10週間たっても孵化できる。もちろん無精卵など、個人的には有機農産物とは呼ばない。良い卵を作るためにはやってはいけない事だけではどうしようもないのだ。ある自然畜産と称する有精卵を孵化してみて一つも雛にならなかった経験がある。自然養鶏にはやらなければならないことが山ほどある。そういうやるべきことに全く触れない、JAS有機基準は何か片手落ちなのだと思う。有機農法は自然の摂理に従う最高の栽培法だから私はやっている。それ故にJAS有機基準にかかわらないで来るしかなかった。自給農業はJAS基準にかかわる必要が全くないところが素晴らしいのだ。

 

 

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