カフェイン中毒死
カフェイン中毒で死んだ人のことがテレビで流れていた。その時コーヒー5杯以上は危険と言った。先日は5杯毎日飲む人の方が長生きというのもあった。どちらも正しくどちらも間違いである。その人その人で判断しなくてはならない。コーヒーを毎日飲む。学生の頃からの習慣なので、50年近く毎日飲んでいることになる。今は午前中以外には飲めなくなった。昔は寝る前でも飲んでいた。朝起きると、すぐにコーヒーを入れる。だいたい5杯分くらいを入れて午前中に飲んでしまう。頭がはっきりするので飲む感じである。コーヒーの味がわかるのかというと、コーヒーの味は昔からよく分からない。苦いと感じている訳でもなく、たまには美味しいと思う事もある。家でいれるとしても、喫茶店で飲むとしても、美味しいと思うのは、コーヒーの味の為ではなく、どうも体調の影響が大きいようだ。だからモカが好きだとか、ブルーマウンテンが美味しいとかいうようなことは全く分からない。判別がつくこともないし、まずくなければそれでよいという範囲の事だ。
味が分からないから入れ方もいい加減かと言えば、そういう訳ではなく、毎日最善と思われる入れ方をしているつもりだ。専門家から指導を受けたこともある。コーヒーは湧き水で入れている。出来れば新鮮なものを汲んでくる。湧き水の方が良いのかどうかわからないが、かなり観念的に良いと決めて込んでいる。ここまでこだわる人は少ないだろう。小田原の水道をまずいと思ったことはない。東京都美術館に自分のお茶を持って行って毎日飲んだが、さすがに水がカルキ臭くてお茶の味が台無しだった。あの水では今は暮らせない。水を汲んでくるのはいいのだが、その水の良さが味に効果があるのかどうか確認できたことはない。ただ、湧き水を汲んでくるという気分の方を大事にしている。コーヒーは毎朝豆を挽く。加藤コーヒーというところから通販で買う。月に一回程度、2キロの豆を買う。好みがないとはいえモカの味を中心に選択する。味が分からないくせにうるさいようだが、最近のモカはモカの味がしなくなった。あの輸入禁止以来おかしい気がしている。これも思い込みである。
実は、加藤コーヒーで美味しいのはブラジルである。ところがこのブラジルが曲者で、何しろブラジルは広大である。それをブラジルでは判別がつくはずもない。一応観念として標高の高いところが良いらしいとか、何とかという最高級の認定を受けたとか、有機栽培であるとか、そういうのを選択したりするのだが、情けないがこの味の判別が出来ないのだ。だから、ブラジルがたまたまおいしいことがあったという程度のことになってしまう。モカの方が無難と思い注文する。ところが相変らずおいしいモカには出会わない。実は原因には気づいている。老化である。今後も味などだんだんわからなくなるのだろう。眼が衰え、耳が遠くなり、脚が衰える。味が分からなくなる。自覚に乏しいところはありがたいのかどうか。子供の頃は味の判別には相当の自信があったのだ。食べ物屋のお店を始めた人が、私を試験に使ったほどだったのだ。3種の肉団子を順位をつけてもらいたいというのだ。美味しい順に感想を述べたら、やはりごまかせないと言っていた。肉やら粉に違いがあったらしい。今の衰えからは信じられないような話だ。
歳をとると微妙な味など分からなくなる。分からないくせに年より程うるさくはなる。蘊蓄も言いつのる。多分味だけでない。判断も同じだ。たぶん絵も同じなのだろう。そうだと、残念なんだが自分だけ例外と考える訳にもいかない。コーヒーはコーヒーで大差ない。缶コーヒーはさすがにだめだが、コンビニカフェラテで十分である。最近カフェオーレとは言わなくなった。どうでもいいがついカフェオーレと出てしまって、直される。絵を描きにゆくと必ず買う。ポットで入れて行けばいいのだが、これはまずくなる。こういう観念が年寄りのうるささなのだろう。本当は分かりやしないくせに。何故か、セブンイレブンではカフェラテはない。セブンイレブンは嫌いなので、出来るだけ他の店に行くので、ちょうどいいのだが。