象徴天皇の意味

   

平成天皇の生前退位が検討されている。生前退位が行われることはほぼ決まったようでよかった。その前提として考えなくてはならないことは、象徴天皇の意味である。検討委員会の議論が象徴の意味に及ばないのでは、天皇の存在をタブー視していることにならないだろうか。憲法において、「第一条天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定められている。この意味を国民全体が曖昧にしかとらえていなかったのではなかろうか。日本人が自らの憲法を学美、自らのものにしてこなかったという事を痛感する。憲法9条2項があっても、自衛の為の武力は持てるとした、欺瞞が憲法全体を正しく読む努力を避けさせたのではないか。子供たちが素直に読めないのが日本国憲法の置かれた、位置である。当然ながら自分のこととして、一番深く考えていたのが、平成天皇であった。象徴天皇に関する考えの表明が8月8日にあった。

「私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。」

日本国の象徴の意味を自分なりに書いて見る。瑞穂の国日本の象徴である。日本人の暮らしの象徴で在ったのではないか。それは日本の歴史を通して、天皇家が成立以来少しづつ形成された姿である。明治の日本帝国の形成に利用され、軍国主義権力の中心の存在にされた。これは一時期の特殊な形態である。天皇は日本文化に基づく暮らしを送る、文化的な存在である。文をもって象徴となる。もちろん天皇家としての神官としての祈りは当然のことだろう。それは水土を祭ることであろう。稲作を祭ることである。稲作は経済であり、技術であり、文化であり、国の根本であった。瑞穂の国の育てた文化を尊重するもので在ってもらいたい。日本人一人一人が天皇のような暮らしを日本人の暮らしとして感じられるような、日々の送り方を天皇には象徴として行ってもらいたい。それが憲法に定める象徴天皇ではないかと考える。それは武力をもって権力を司るのではなく、文化力をもって尊重されてきた、天皇の本来の在り方であろう。平和国家日本の象徴として、天皇が存在する意味である。

天皇自身が考えてきた象徴天皇の意味を日本人全体で考える必要がある。日本国がどのような国であるのかに関して、一定の理解がなければ憲法の示す、日本国の象徴の意味を見出すことは出来ないだろう。さらに日本国民統合の象徴という事になれば、日本人がどのようは方角の統合を目指すのかが議論されなければ明確になることはないだろう。天皇の存在は、憲法の示す平和への願いと両輪である。日本の平和主義が、分をもって国を治める天皇の存在と通じている。現在天皇自らによる、一つの象徴の意味の提示があった。この機会に国民は広く議論するべきことであろう。

もう一つ考えなくてはならないことは、女系天皇を認めるかどうかである。男系で進めば、必ず天皇家は途絶える。私はその方が良いと考えている。途絶えた方が良いと考えている。憲法の定めるところの天皇は途絶えることは、仕方がないことだ。新しい形の天皇家がその時うまれる。天皇の現在の在り方は、人権を無視したものである。天皇を辞めるという事も出来ない。それに関して発言もできない。生前退位は何年も握りつぶされてきたのだ。女系の是非を議論するよりも、憲法に規定する天皇家はどこかで終わることは、むしろ自然であり良いことだと考えている。天皇家が歴史にふさわしい形に変わる必要がある。もし男系が100年後に失われる時が来るとすれば、それはそれで、新しい知恵によって、新たな形が模索されることだろう。

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