稲刈り脱穀が終わる
稲刈りが、9月30日に全体を行い、残りが10月1日、脱穀が10月8日9日。サトジマンの収穫である。今年は一本植で種もみを収穫したのが初めてのことだった。写真が収穫した種籾である。160株を収穫した。そして重さが、15.6キロだ。一株約100グラムの種もみ。1株が20穂が付いていたとして、1粒が0,3グラムであれば、一穂が150粒以上あるという事になる。一粒の種もみが、3000粒になる。つまり稲は3000倍にもなる植物だという事を目の当りにしたことになる。これほど素晴らしい植物は他にはないだろう。東洋3000年の循環農業は稲という素晴らしい植物を得て、花開いたのだろう。まだ全体の収量は分からないが、悪くはないと思っている。種籾は10番田んぼに植えた。半分を4本植えにして、半分を1本植にした。1本植でも大丈夫だという事を確認するためである。学問的には大丈夫とされていても、稲作は様々な条件で出来ている。自分の所でやってみなければわからない。
比較してみて不思議なことも起きた。2つある。1本植の方が最後の段階まで葉の緑の色が残る。また、1本植の方が倒伏しやすいという事が起きた。2つともまだ理由が分からない。みんなもいろいろ想像はしているが、結論は出ていない。1本植で面白かったのは5,6本しか分げつしない株があるという事だ。全体の2,3%あるのではないか。理由は分からないが、遺伝的な形質のように見える。もし種籾にこういう株を使えば、全体に分げつしにくいことになる。農協の種もみは1本植ではないと思われる。中には分げつしない形質の種も混ざっているかもしれない。そうだとしても、4,5本植える人には問題がない。この種もみを使って1,2本植にすれば、稲作全体に影響が出ることになる。やはり良く分げつする形質は大事だと思う。また穂が、100粒以上になるという株の方が望ましい。これは観察したところ、どの株も100粒以上だった。背丈についてもほぼどれも同じで、110センチを超えた。これは4本でも1本でも同じ結果だった。
今年は紋枯れ病が出た。何とか後半持ち直したが、枯れてしまう株すらあった。幸い広がることがなかった。これで気づいたのは、乾き気味の田んぼの、外側の株の方が紋枯れが広がったという事である。7月から、8月にかけての日照不足は小田原では過去最悪なもので深刻なものがあった。この影響を見ていると、出穂の前後の時期で影響が変わった。穂が出てから日照不足になった場合と、穂が出る前に日照不足になるのでは、停滞の程度が違った。出穂前の稲はまったく動かないような状態になった。そして徒長をした。欠ノ上田んぼでは喜寿糯がこれに当たる。120㎝もの大きな株になってしまった。そして全体に粒張りが良くない。まだ喜寿糯は1週間遅れで、はざがけの状態である。本当はまだ刈り取るには早かったのだが、スケジュールを優先するしかなかった。
稲刈り、脱穀と多くの人が参加してくれた。自分の主食を作るという稲作に共同で真剣に取り組めたという事に深い満足感がある。一人でやる稲作よりも、人間として深い世界を感ずる。日本では稲作は村の共同作業であった。水を通して、協働する喜びを知ったのだと思う。それが日本人の徳性になったのではないか。能力のある人も、体力のある人も、子供からお年寄りまで、協力して主食となるお米を作る。ここで人間が磨かれ、日本人が誕生した。農の会では100家族以上の人たちが、稲作を続けている。継続している人は大変なことはあったのだと思う。しかし、続けることで学んだことの方が多いいのではなかろうか。人間が生きるという事には、食べ物が必要である。同時に人が共同で困難を乗り越え、達成する。この共同の体験も必要なのではなかろうか。