日本出身力士の優勝

   

日本出身力士の10年ぶりの優勝。なんとも耳障りの悪い言葉だ。日本出身力士という言い回しは、配慮があるようで気分が悪い響きだ。日本人力士の優勝でかまわないではないか。帰化した相撲取りへの配慮なのだろうか。つまり大島親方の優勝がある。旭天鵬である。抗議でもあったのか。なんか理屈っぽくないか。旭天鵬は大島親方の養子になって日本人になった。モンゴル出身親方と呼べというのだろうか。正確性はあっても、意味不明な言葉だ。外国人力士が日本の国技と自称する相撲を圧倒している。そうなるのが当たり前のことだ。琴奨菊の優勝はなかなか見事なものであった。琴奨菊の相撲は、立ち合いから一気のがぶり寄りである。こうした相撲は何かではまると強い。立ち合いがすべての相撲である。先場所までの琴奨菊は立ち合いに常に迷いがあった。その迷いは一歩でも相手より良い立ち合いをしようという、有利を求める迷いであった。そのために相手はわざと立ち合いで待ったなどして迷わせてくる。仕掛けられ集中を切らしていた。

この正月場所では、立ち合いの見切りが良かった。相手かまわず自分の立ち合いを貫いていた。今場所は相手を自分の立ち合いの呼吸に入れて仕舞う、強い気迫があった。それは国技館に詰めかけたお客さんの気合も呼応していた。とても、ずるい駆け引きの立ち合いをする雰囲気ではなかった。良い例が最大の山場であった白鵬戦。すでに2人の横綱を破り、全勝の白鵬に勝てば、優勝がいよいよ見えてくる生涯一度の大相撲である。白鵬は立ち合い張り手に来た。最近の白鵬らしい弱さの表れたところだ。これが災いする。張り手は失敗するとその分前に出る力は弱まる。張り手に驚くかどうかが分かれ目である。ものともせず一気に押し込んでいった。白鵬にはすでに限界が来ていた。それは横綱が猫だましに行った先場所の栃煌山戦の時に書いた。もう張り手くらいしか方法がなかったのだ。その後は先場所同様に連敗したではないか。

今場所の白鵬は初日から飛ばした。強かったころの白鵬は、上位戦になるまで力を入れずに中日までは調整をしている。それでも負けることはまずなかった。そのくらい力の差があったのだ。立ち遅れが後の先となるくらいの力量の差状態。今場所はその余裕がなかった。どんな相手にも全力で相撲を取ったのでびっくりした。双葉山が目標どころではない。むき出しの闘争心が前半戦から目立った。それをテレビ解説などでは、強い強いと持ち上げていた。見方が甘過ぎる。どこか不安があるから、初めから力を入れている。琴奨菊に敗れた後、がたがたと敗れていった。前半の飛ばし過ぎは不安の裏返しだ。どこか故障が出たのかもしれない。白鵬はまだ31歳と若い。自分を取り戻して、もう一度自分を作り直すくらいのことがやれれば、また復活があるだろう。桁外れの資質の力士である。勝ちにこだわるのでなく、勝負を超えた見事な力士になってもらいたいものだ。

しかし、35回も優勝し、すべての記録を塗り替えるところまで上り詰めた力士が、自己再生をできるともおもえない。成功体験から抜けられないものだ。もしそれができるとすれば、まさに木鶏となれる。その時には相撲というものを超える存在になるのだろう。角聖と呼ばれてもいい。来場所は琴奨菊が横綱挑戦になる。ここでもまた日本出身力士の横綱挑戦と引っかかる言い方をするのだろうか。もう生きている内には日本人横綱は見れないのではないかと、北の富士さんがちらっと口にしたことがある。私もそんな気がしている。それでも相撲は人気を回復した。国際化の先例である。相撲の行き先は案外に、日本の行く先を表しているのかもしれない。日本農業の企業的成功事例がタイ人経営者であったりする時代が来るのかもしれない。抵抗があるのは最初だけで、今となってはモンゴル出身力士の相撲を楽しめるかである。

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