横綱の猫だまし
大相撲九州場所は横綱日馬富士の優勝で終わった。けがの続いた後、立ち直った見事な優勝である。スピードの速さでは過去最高の力士ではないだろうか。横綱白鵬が関脇栃煌山に対して、猫だましをして勝った。その昔、横綱大鵬に対して、平幕出羽錦が猫だましをして負けた。この時も大いに話題になった。横綱に対して失礼ということがそのときは言われた。下の力士が大横綱に勝つために秘策を使うのは許されるだろうという意見もあった。今回は上下逆様である。相撲は神事であり、芸能であるという気分で見させてもらっている。それは今の時代でもときどきは都合よく持ち出されることがあるが、親方の暴力事件が頻発し、同時に力士の賭博や八百長事件が賑わう時代なのだから、いまさらのことだとは思うのだが、相撲は神事の原点を忘れれば、つまらないものになる。
全勝白鵬はその後3敗した。なるほどと思う。猫だましを使うというところに、すでに心におごりや弱りが生じている。猫だましをしたときに優勝は無理だと思った。相撲は白黒が明確だ。勝ち負けが明確だからこそ、勝ち負けを超えたものがある。そこが面白いからつい見ることになる。人間が出る。出てしまう。土俵の鬼と言われた初代若乃花は、初日良く負けた。あまりに力が入りすぎるので、土俵の神様が鬼の心をいさめた。そしてそこから連勝した。場所中に急逝した北の湖理事長は最強の力士と言われた。確かに相撲に勝つ強さでは、白鵬や大鵬や朝青龍より強いと実感できる相撲だった。待ったをしないと決めていた。たとえ最初の仕切りで相手が立ち上がってきても受けて立つつもりでいた。悔しいことに一度だけ待ったをしてしまった。相手があまりに立ち合いが下手で、どうにもならなかったのだそうだ。一人相撲とはよく言ったものだ。
私が見たいのは見事な相撲である。それは勝ち負けではない。見事に負けていさぎ良い相撲は素晴らしいものだ。江戸時代には一人相撲という芸能があったそうだ。一人2役で相撲を見せるという、その芸は観客が「上手投げ」か声を掛けると、見事な上手投げを打つ。櫓投げ、下手投げ、いろいろの技を見せるわけだ。ところが、最も人気を博した芸が、負け相撲だったという。見事に投げられる姿を演ずるという。なるほど江戸時代の人の心のありようが見えるようだ。猫だましをする横綱はちょっと想像できなかっただろう。もし、藩お抱えの大関であれば、切腹させられたかもしれない。負けて切腹するとしても、勝ち負け以上に守らなければならないものがあった時代があるのだ。雷電はあまりに強いので、張り手で相手が柱に当たって死んだことがあり、その後『張り手』『突っ張り』と『かんぬき』は禁じられた。かんぬきでは相手の腕を折ってしまったのだそうだ。
朝青龍が辞めさせられてから、今度は白鵬が批判の対象になっている。強すぎると嫌われるという傾向もあるが、モンゴル出身ということが微妙に加わって、どうもすっきりしない。勝つために必死なのだ。何をやっても勝ちたいのだ。白鵬のその後の負け続けた成績を見れば、わかることだ。記録を総なめにした大横綱が、下り坂に入ってどのような身の振り方を考えるかも、大切なことだ。猫だましが通じないのが世間だ。それは安倍政権と同じではないだろうか。世界との経済の競争に勝つために何でもやれ、中国敵視、女性の活躍、移民労働力、アメリカの言いなり。理念や目的を失っているので、勝つことだけが価値観になる姿。それが国民の評価のすべてだと考えている哀れさ。法人は過去最高の利益を上げているのに、法人税を下げる。国民の格差は最大になっているのに、総活躍社会である。政府の猫だましである。白鳳の猫だましは新聞全紙がよく言わなかった。横綱の品格に劣るというのだ。確かに安倍さんの掛け声倒しは、総理の品格にかかわるようだ。