テレビ朝日の早河洋会長の陳謝
テレビ朝日の会長が謝罪会見をした。古賀氏の最後ぺ問題の陳謝である。古賀氏に陳謝したのかと思ったのだが。どうも官邸に陳謝したようだ。内容的にはテレビを見ていた人に、陳謝したという事になっているが。こうして放送局が委縮して自主規制をして行く。官房長官菅氏は「古賀氏が事実無根の官邸の圧力を虚言した。」としている。問題はそういう証拠がある事ではない。官邸の意向を慮って自主規制してしまうように持ち込むのが、官邸の圧力なのだ。従軍慰安婦問題での軍の関与の証拠が無いという図式と同じである。ケチのつかない公式見解だけを放送する傾向は、益々強まりそうだ。古賀氏の立場はコメンテーターという事らしい。コメンテーターとは、事前に決められたせりふを語るだけの人なのだろうか。もしそう言う決まりがテレビの世界にあるのなら、そんな番組を見せられる方は、たまったものでない。面白いのは不規則発言だけとなる。テレビは新聞と違って、生放送の臨場感が面白いのではないか。
テレビはもっと自由である方が面白い。だからテレビでは漫才師的な人が全盛である。北野武氏が着ぐるみを着て、妙なメイクをして笑わせているのは、萩本健一氏になりたくないからだと言っていた。文化人になっちゃたら、言いたい事も言えないというのだ。テレビは冗談めかして言わないと本音が言えない世界。新聞は冗談。今更ながら、改めて書くが報道という物の役割は、権力批判である。国民に対する権力と言えば、立法・行政・司法の三権分立と言われるが、三つの権力に分かれて、国民に対して、権力を行使している。この権力が勝手気ままに、おかしなことをやらないように、憲法で権力の行使の範囲や、方法を規定している。それでも権力者は憲法を踏み越えておかしなことをする。そのときに、きちっと警鐘を鳴らすのが、報道の役割である。報道が批判精神を失ってしまったら、存在価値が無くなる。
日本の報道が、体制翼賛的になってきたと言われる。健全な民主主義を育てる為に、重要な役割が報道にはある。自由な報道が無い国、例えば北朝鮮の様な国は非民主主義の国という判断が出来る。中国やロシアなどもそれに準ずる国と言える。韓国はどうなのかという事が、産経新聞記者の裁判である。日本では報道機関の自主規制が働き始めている。古賀氏の様に台本にないセリフを発言するかもしれないような人を、自主的に排除しようとしている。それは左翼とか、右翼とかそういう政治的な意味だけでなく、不規則発言を嫌うと言う事だろう。毒にも薬にもならない常識人を起用して行くと言う事になる。そして、生の発言の方は、着ぐるみを着たおふざけにしゃべらす。これでは一億総マンザイ作戦という事ではないか。ふざけて笑っている間に、頭の中もふやけて行く。ふやけてしまえば、NHKのように今日の天気予報で、着る物まで提案する様になる。
安倍氏は保守勢力の最後っ屁だと思っている。古賀氏に比べると相当強烈に臭いが、最後は最後である。安倍氏も台本のないアドリブで喋ると、自衛隊をわが軍などと、発言してしまう大根役者だ。自民党は自民党憲法創設という、日本で無血革命を起こそうとしている政党である。ありとあらゆる手段を用いて、今その為の戦いをしているのだ。昔の革命と違って、静かに分からないように、麻生さんの発言によれば、ナチスのように賢く、独裁政権を作ろうとしている。先ず国民から牙を抜いてしまおうと言うのが、報道機関の自主規制作戦である。自主規制だから、見えないように進行していると考えて置いた方がいい。例の、憲法改定も先ずやりやすい所からというような、姑息な方法が得意なのだ。そして、慣れた所で自民党憲法になるというとだ。私はそんな日本はいやだ。まっぴらだ。