絵の事
(この場所を描いている。)
最近少しづつ絵は描いているのだが、どうもやっていることがおかしく成っている。この変な感じを上手く書くことはできないだろう。それでも何かその周辺のことでも、ぐるぐる書いてみることは、後でもう一度考えて見る上で材料になるかもしれない。最近の絵を描くことのように結論がないまま、分からないまま書き始める。家のそばの、いつもと同じあたりの風景を描こうとしている。ところが、毎日その場所に2度ほど行くのだが、そうだ、この場所は一枚の絵の取材で描いた場所である。この場所の何を受け取ろうとしているのかが、良く分からなく成ることがある。思い当たることと言えば、色である。今広がっている色彩に反応が出来ない。その理由が良く分からない。何故色に反応するのか。何故色彩を美しいと感じるのか。これが分からない。何かの記憶なのだろうか。見ている自分と言う眼から妄想が抜けたような感じ。
絵を描くのは、できた絵がどうこうということでもない。ただ眼前にあるものに感動する何かがあり、その感動しているすごさを絵にしたいということで、絵を描きたくなっていた。そのこと自体に意味があるのかどうかも、気にしている訳ではない。絵を描いてきて、せめて、眼前に広がる自然にひきつけられる何かを画面に定着させたい。何故そこが気になるのか、気にならない所があるのか。この違いは何か。そう言う事も知りたい。絵にしたく成る何かと、絵を描きたいと思う気持ちと、視覚的な刺激とは繋がっているようで、違うようでもある。ただ絵の具を塗りたくなることもある。絵の具を塗って表れて来るものが、何かを呼び覚ましてくれそうな感じ。目の前にある空間の動きのようなものに引かれているのか。色彩と両方なのか。良い絵をでっちあげようとしなくなった時、それでも残ってくるものがあるのかどうか。
分かっていてそれを描きとめようとする時もある。この2つの間を行き来している。一枚の絵で方向が揺れ動くような気分の時もある。要するにとても一定しない。この揺れ動く感じがなんなのだろうと思う。絵を描くと言う事どういうことか、明確に分かってやっていたようなことは、無かったのだろう。山北に来て数年して、作り絵をでっちあげることが出来なくなった。見えているものを、自分が美しいと感じるものを描くことにした。分からないからそう言う形でやってみようと思ったのだ。その頃は、絵にしがみついて生きてゆこうと考えていたから、自分の新しい絵を早く探そうと急いだ。絵を止めると言うことは人生を終わりにするような気分だった。そうして、美しいと思うものを描いている期間が10年くらいあったと思う。その内に、美しいと感じる場所が変化してきて、何か力が湧きでているような場所に引きつけられると感じて、描くようになった。
これを続けているうちに、どうもそう言う自然の現象より、人間の自然に対するかかわりに面白さを感ずるように変化を生じる。畑というより、元畑だった所が、自然に戻ってゆく過程のようなものを面白いと思うようになった。遷移、痕跡、の中に自然の持つ本質のようなものを感じた。この時期が10年ぐらい続いた。具体的にそういう観念を描いたという意味ではない。そう言うものに引きつけられ、眼前の風景を描いていたということ。その後の変化は、畑のような人間が耕作の目的で作ったものを描きたくなった。それは、自然が戻してゆく完全さとは比較にならないほど、拙く、つまらなく、醜いのだが、そのどうしようもない感じを含めて絵にして置きたくなった。絵になるというような見込みはないものを描いてみる。このあたりから見失う。今は何を描きたいのか。そもそも絵で描く必要があるのかどうかも、怪しく成ってきた。やはり原発以来、おかしい。